インファーネスひみつきち

考え事を赤裸々に公開します。指摘、批判、感想すべて受け付けます。読みづらい?そのうちそのうち直します。

私の息子はアイスキャンディになって帰ってきた

 「戦時中でも愉快な気持ちを忘れてはいけません。英雄がアイスキャンディになって帰ってきます!!」こんな宣伝のポスターを街で見かけたその日から、電話の宣伝用コールが何度もうちに届きました。そして数日後そのアイスを販売している会社からアイスキャンディが届きました。氷もすぐ溶けてしまうような暑い夏なのでたった一本のアイスのために、とても丁寧に包装されていました。「すぐ食べないと溶けちゃいますよ」という配達員の気遣いにしたがって玄関でアイスを食べました。こんなに暑い日なのにアイスはたった今クーラーボックスから取り出したかのように冷たかったのです。赤いスイカのフレーバーでした。

 息子は軍に入隊して数ヶ月後、フランス解放軍としてノルマンディに行きました。といっても大規模な上陸作戦があらかた片付いてからの派遣だったので、私はどこか安心しており、また息子には不満の影が確かにありました。他の若い男性と同じように英雄になるチャンスが欲しかったのでしょう。そして本土で息子と別れてから二ヶ月後、軍の方が家に訪ねてきて息子の死を知りました。戦闘によるものではなく、不注意で戦車の履帯に巻き込まれてしまったそうです。

 アイスのパッケージイラストは宣伝ポスターのそれと同じで、パッケージを横断するように2本の履帯跡が描かれていました。照りつける日差し越しに、中で溶けて染み付いたアイスキャンディがちょうど履帯跡と重なって見えました。

神話形成 持論 21年7月

 私の知る限り神話には現象説明能力が有る。現象説明能力とは身の回りの環境(山や川動植物の有様など)や現象(天体の運動、月の満ち欠け洪水など)が何故そうなったのか、そうなるのか又どのようにそうなったのか、そうなるのかを”説明”する能力である。つまり神話はその物語の中にある神話の全ての物語がそうというわけではないが、私の知る限り神話には多かれ少なかれ必ず現象説明能力を有した物語が有る。

 このような神話はどのようにして生まれるのだろうか。人間は日々の生活の中で様々な不可解に出会う。原始的には仲間の死や食糧となる動物や植物の起源があげられ、発展的には自然現象や天体、さらに自我やこの世界の発生の仕組みなどがある。このような不可解に直面した時、思うに人は二つの行動に出る。一つは問題を無視し忘れてしまうことで、もう一つは問題解決を図ることだろう。この問題解決方法は当然簡単にはいかない。しかし厳密な意味での問題解決をするのではなく、ひとまず納得できるそれっぽい説明をするということならできそうだ。このそれっぽい説明が神話の起源となるのだが、ここで重要なのは神話を生み出す者も、生み出される物も一つではないということである。つまり、ある民族の中で偶然的に同じ問い(例えば死について)に不可解を覚えた者が2人以上いて、かつそれぞれが独立に問題解決に取り組んだ時、全く同じそれっぽい説明がなされることは相当に稀なはずだ。この時その民族の中には問いの答えが二つ存在することになるが、そのどちらかもしくは両方を混ぜ合わせたものがその民族の神話の基礎となる。この段階ではまだ「神話」としての形はできておらず口承伝承として民族の間を時間を超えて広がるだろう。

 このような手続きによって様々な問題が解決され「神話の基礎」が溜まってきたところにある優れた詩人の類いが現れ、それを体系的に語る一つの物語として「神話」が誕生する。

水面を見るのではなくて光を見るということ

「太陽できらめく水面が美しい」などという文句は聞いたことが有るだろうし、たとえなくても容易に納得できると思う。

私もそうでした。

一体いつこの文句を聞いたのかなど思い出せないほど自明でありきたりな文句に思えます。もちろん私は今までに何度も水面を見てきましたしそれが美しさを持つということは理解していたつもりです。けれど以前私が東京湾フェリーで見た水面の美しさは今まで思っていたそれとはまるで違いました。

例えるならそれは弾けて燃えるマグネシウムか、もしくは無数の星々が誕生と死を繰り返す天の川のようで文字通り見とれてしまいました。

りんごの味を知るにはりんごを食べるしかないように、これも実際に体験しなければわからないものと思います。更に単に視覚に水面を入れるだけではだめでまさしく「光を見たとき」見えてくるものと思います。

「太陽できらめく水面が美しい」といった人は水面を見たときの美しさを言ったのか、それとも光を見たときの美しさを言ったのか。

科学誕生のながれ その4~神話の真偽性~

 日常において、社会に根づいたいわば当たり前の知識の真偽は問いただされることなく真とされる。神話的、宗教的世界観の根付いた社会でも同様だろう。しかしこのような「出所不明の真」の真偽を確かめたがるのが哲学の人であった。では彼らはこの神話の真偽をどのように調べるだろう。この活動は現代の科学で言うところの実験に相当する活動になるだろう。科学において理論の真偽を問う時実験を行うが、この時、大きく2つの目的の実験に分けられると思う。一つはすでに正しいことが知られている理論を、確認のため改めて実験で確かめてみる。という再確認の実験。もう一つはまだ真偽の決まっていない理論により予想される現象や物理量が、実際に起きるか、値が与えられるかということを確認するための実験。確認の実験がある。この2つの実験を神話の場合どのように行うのだろうか。またこれら2つの実験の他にも神話にはその真偽を確認するすべがあるだろうか。

 まず再確認の実験から見てみよう。これは神話の記述が実際の世界をきちんと説明しているかということを確認する作業になるだろう。例えば「その昔こういう理由で白い木の実に人の血がかかった。その身を桑という」などという神話があったとしよう。この神話は桑の実が血の色をしていることを示しており、実際に桑の実は血のような色をしている。このような手順で確認が完了する。もちろん神話の解釈の方法は一通りではなく説明も不十分となることが多いことだろう。この点も現代行われている科学とは大きく異る。

 ところで神話が社会に根づく過程で、人々の社会自体も変化することだろう。例えば神話に登場する実在する国が戦争等で滅ぼされたとしよう。時代はめぐりその国が実在したことは忘れ去られ人々がその国を知るきっかけは神話唯一となったとき、人々にとってその神話は、人々の知らない国の存在を予言することとなる。そして実際にその国の跡が発見されたとなるとこれは確認の実験と見なせるだろう。とはいえこの神話における確認の実験も、現代の科学のそれと比べたら欠陥に溢れてることは否めない。しかし仮に神話の根付いた社会でこのような確認の実験が行われ、そしてそれが成功したならばその社会の人々にとって神話は十分に真と思えてしまうだろう。

 以上は科学実験を真似た神話の科学っぽい活動と言えるだろうが、もっと根本的に神話の真偽を確かめる方法に、神との接触があるだろう。もっともこれは、「神」の真偽であって「神話」の真偽を問えるものではないかもしれない。また、神と接触したその人が神とどのようなやり取りをしたかにも大きく左右されるが、この神との接触で神話が受ける影響は大きく2つに分けられると思う。一つは神話の真性が大きく増す。これは神話の内容と神とのやり取りが合致しているときである。もう一つは神話の修正である。神とのやり取りと神話の内容が部分的に異なったりする場合はこれになる。またもう一つ考えられるのが神話の全面的修正。これは今までとは異なる神話の誕生を意味する。

 この神との接触接触者当人の経験であり社会全体にとっての神話の真偽に影響を及ぼせるとはかぎらない。これは接触者の社会的地位などに依存することだろう。また、たとえこの経験が幻覚等によるなにかの勘違いであったとしてもやはり当の本人にとっては強烈な経験としてその人の神話の真偽を決定づけることとなるだろう。真偽の信頼性については確認、再確認の実験でも同じことが言え、たとえある人物が個人的に「神話の国」を発見したとしても人々がそのことに聞く耳を持たなかったら「神話の国」はどこまでも「神話」の国である。信頼の置ける人物が「神話の国」を証言したり、多数の人物が「神話の国」の実在性を語ることで社会は神話の国を認めていく。そしてこのことは現代の科学にも通ずるところがあり、実験の最中に原因は何であれ常識を覆すような発見があったとしても再現性がなければ社会一般には認められない。

 以上に述べたような活動が実際に行われてきたかは定かではないが、科学探求ならぬ神話探求もこじつけかもしれないが確かに科学のような「科学っぽい活動」が見え隠れしている。

 次回、完全性の問題を扱う。

科学誕生の流れその3 ~神話の実用性~

 歴史を見るに人間社会には多かれ少なかれ神話的、宗教的世界観が根ざしている。この世界観がどのようにして生まれるかは自明ではないが可能性の一つとして前回神話誕生の流れを説明した。それでは神話の根ざした社会の中では一体どのような科学っぽい活動が行われるのだろうか。この活動は「すでに承知の知識群(ここでは神話)に対して抱く疑問」を主軸として展開していくことだろう。疑問の種類はいくつか有るだろうが、おおむね次のようになると思う。知識群が正しいかという真偽の問題。余分なもしくは足りない知識はないかという完全性の問題。その知識が一体何に使え使えないかという実用性の問題。

 まず実用性の問題を考える。これまでの神話誕生の流れを考えると、神話には日常の非自明な事柄を説明する能力が有るが、その他の人々の生活に影響を及ぼしうるような点を考えていきたい。とくに神話の説明能力について言えば、たしかに神話はある特定の人物によって離散的なものから連続的なものへとまとめられたと言ったが、神話の根源を「その場しのぎの回答」と考え、人々の営みの「自然な流れ」のなかで神話として形作られていったことを考えると神話の説明能力は人為的とは言い難いが神話に与えられる当然の副産物と見て取れるだろう。神話にはほかどのような実用性が有るだろうか。十分に社会に根ざした神話は人々の共通認識、共通の価値観を与えることが予想される。これは社会にある種の団結や民族意識のようなものを与えるのに役に立ちそうだ。これは結果的に神殿の建設や恒例行事を生み出すこととなるだろう。しかしこれらの実用性はどれも一部の偉人的人間によって発見、発明されるようなものと言うよりかはそれこそ神話誕生のように人々の営みと直結しながら生まれ習慣化されていったものと考えるほうが自然だと思う。また、現在行われている科学ではある個人または小さな集団の偉業により社会全体に影響を及ぼすような発見や発明が有ることを考えるとやはり神話のそれは科学とは異なる。

 次回、真偽の問題、完全性の問題を扱いたい。

科学誕生の流れ その2 ~神話の誕生~

 

 大昔の狩猟採集民、農耕民による科学っぽい活動の原動力を安定した生活を望んだことによるものと考え、そしてその目的が達成された時、彼らの科学っぽい活動は終わってしまうのだろうか。現実的に考えればそんなことはなく、異常気象などの不確かな自然の振る舞いに対応すべく時々刻々と少しずつ新しい知識や反省を加えながら、彼らの活動は続くだろう。しかしこの活動はあくまで実用的なものであり、その1の最後で触れた現在行われている科学のそれとはどこか違う。そこで次のような人物の登場を期待する。つまり熾烈な生存競争から開放され余暇を手に入れた人間(余暇の人と呼ぶ)、とくに知識を得ることに喜びを見出せる者(哲学の人と呼ぶ)の登場である。余暇の人と哲学の人は同一とは限らないので注意。というのも、狩猟採集民、農耕民の行った科学っぽい活動を実際に行なったのは哲学の人かもしれないが、その人は生存という目的と達成すべく科学っぽい活動をしたならば、これは余暇の人では無いからである。

 哲学の人が真に科学っぽい活動に精を出せるようになるのは当然余暇を得たときだろう。どのような人々が余暇を得られるのかは難しい問題だがある社会の中に余暇を得られるものが現れるということは想像に難くない。本題となる問題は「余暇を得た哲学の人はどのような科学っぽいことをするか」という点であるが、これは人類の歴史を見るのが確実のように思える。だがその前に記録に残っていない科学っぽい活動を考えてみたい。そのために、今現在我々の持つ妥当らしい知識を元に考える。

 子供のなんでなんで期に注目したい。これは小さな子供がその両親などに対して様々な「なぜ」という問いを問いかけ親を困らせる時期として知られるが、これと同じ時期がはるか昔の子供にも合ったと考えることで、子供達を哲学の人と捉えてみる。もっとも、大抵の場合子供にその問題を解決するための能力は備わっておらず、問題を提起するだけに終わり問題の解決は大人たちに委ねられる。提起された問題が大人たちに説明可能な問題ならば、大人たちはきっと答えてくれるだろう。しかし、問が例えば「この世界はどうやって始まったの」といった極めて難しい問題であった場合大人たちはどう答えるだろう。

回答のパターンはいくつかに分けられ、「わからないのでわからない旨を伝える」「無視する」「その場しのぎの回答をする」に大きく分けられるはずだ。どの回答を取るかは回答者である大人たちによるが、子供を最も納得させるのは「その場しのぎの回答」であろう。そして、うまいその場しのぎの回答はコミュニティの中で共通の回答となって広がっていくと考えられはしないだろうか。だとするならばこのような「その場しのぎの回答」は子供が提起する問題の数だけ与えられることとなり、コミュニティ内で「世界の始まり」などの難問に回答を与える知識群ができ、少しずつ修正や改良が加えられながら根付いていくこととなるだろう。この活動は我々が行う科学のそれとはまるで異なるものであるが、身の回りから生まれた問題を解決するため、回答者が持てる知識を用いて、少なくとも「無視」や「分からない」よりも納得感のある回答を導いたその活動は「科学っぽい活動」として捉えられないだろうか。

 さて、この「その場しのぎの回答」が根付いた社会の中で、自ら問題解決のために活動できるほどの余暇を持つ哲学の人が現れ、「その場しのぎの回答」に疑問をいだいたらどのような活動をするだろうか。まず、すでに知られている回答を収集することだろう。集めた知識群を眺めて次に行うことは人により分かれるだろうがこれも次のようにまとめられると思う。一つが「各種回答を否定し自ら回答を与える」これはなぜ「その場しのぎの回答」が生まれたかを考えるととても難しい試みになることが予想される。もう一方が「知識群の統合を図る」これは部分的にでも全体的にでもすでに社会の中で知られている知識を認めこれらを統一的に説明できるいわば理論を構築する試みである。前者はすでに考えたように「科学っぽい活動」と見なせそうであり、後者に至っては理論の構築によりより科学っぽくなっている。

 今注目したいのは「知識群の統合を図る」方である。統合に成功した場合、離散的であった「その場しのぎの回答」は一つの理論として連続的に語れるようになる。そして本来コミュニティの中に根ざしていた知識群であるため、それを統一した理論も同様にコミュニティの中で受け入れられていくことが予想される。もしもその場しのぎの回答に人間的な神を根拠に問題解決を試みたならば、理論はたくさんの神々で彩られた一つの神話として出来上がるだろう。そして実際にこの活動をしたのが古代ギリシアホメロスといった詩人と見て取ることはできないだろうか。

 このように考えることで人間の「科学っぽい活動」から神話の誕生を語ることができる。そしてこの統一化された神話からまた新たな反省や知識が生まれ新たな「科学っぽい活動へと続いていく。そのために統一化された神話の根ざした社会において、暇な哲学の人たちの科学っぽい活動を次回以降考えていきたい。

科学誕生の流れ その1

 「いかにして科学が生まれたのか」このことについて考えてみたいのだが、問題の中に含まれる生まれたモノである「科学」とは一体何なのかという問いは難問である。この「科学」なるものの正体を知らずに本題の問題を解くことができるのだろうか。どうも難しそうなので、ひとまず「科学っぽい活動」というものを考えてみる。この「科学っぽい活動」は科学であっても良いし、科学でなくても良い。こうすることで人間の営みの中の「科学っぽい活動」に注目しながら歴史をたどり、最終的に我々が現在行っている「科学」と呼ばれる活動へと合流しようではないかという魂胆である。

 では科学っぽい活動にはどのようなものが挙げられるだろうか。ひとまず片っ端から挙げていこう。

実験、観測、データの蓄積、予測、推理、法則か、理論の構築、理論の修正、現象の解明、仮説を立てる、等々

 これらをもっと具体的な例で表すならば、データの蓄積は夜空の星の位置を記録することがまさにそれである。また、法則化はある星がどの方角に来たら雨季が始まるといった具合で、この法則を実生活に用いようとしたらそれは予測や推理である。さらに、データや法則を元にそれらを統一的に導ける宇宙像を考えるならそれは理論の構築と言えるだろう。このような科学っぽい活動を人間の歴史の中に見出していく。

はるか昔の人類の中には狩猟採集生活を送っていた者たちがいると言われて拒絶反応を示す者は少ないだろう。現代社会において狩猟採集民は殆どいないと言ってよいだろうが、彼らも科学っぽい活動をしていたことは想像できる。例えばマンモスを狩ろうとするにも一回でうまくいくとは思えない。うまく狩るためにマンモスの動きを観察し続けたのか、それとも何度もマンモスに挑み失敗しその都度反省をしてきたのか、これらの両方かは分からないが狩猟採集民は獲物に関する知識を見て、覚え、実践して来たことだろう。これは確かに先ほど考えた「科学っぽい活動」だがあまりにも原始的すぎて科学っぽくない。そこで次に農耕民に注目する。

 農耕民はいわばその日暮らし的な狩猟採集民とは異なり計画的に種を植え管理し、収穫する。そのためには暦の作成や作物の知識が必要である。暦の作成には天体の振る舞いの記録から規則性を見出す事が必要で、作物の知識も様々な経験の蓄積から得られるものだろうこれは紛れもなく科学っぽい活動であり、狩猟採集民のそれよりもどこか科学っぽい。

 このように人類ははるか昔から少なくとも科学っぽい活動をしてきたのである。しかし現在行われている科学と同じものと扱うにはまだなにか足りない。おそらくこれは扱っている問題の大きさが異なる点、そして現代の科学的活動にある理論からまだ知られていない現象の予言が上の例だけでは見られないところにあるだろう。ここまでの人類は生きるために知識を蓄え科学っぽい活動をしてきたが、その必要がなくなった場合、人の科学っぽい活動はどう変化するだろうか。次回この点に注目したい。