インファーネスひみつきち

考え事を赤裸々に公開します。指摘、批判、感想すべて受け付けます。読みづらい?そのうちそのうち直します。

科学誕生の流れ その2 ~神話の誕生~

 

 大昔の狩猟採集民、農耕民による科学っぽい活動の原動力を安定した生活を望んだことによるものと考え、そしてその目的が達成された時、彼らの科学っぽい活動は終わってしまうのだろうか。現実的に考えればそんなことはなく、異常気象などの不確かな自然の振る舞いに対応すべく時々刻々と少しずつ新しい知識や反省を加えながら、彼らの活動は続くだろう。しかしこの活動はあくまで実用的なものであり、その1の最後で触れた現在行われている科学のそれとはどこか違う。そこで次のような人物の登場を期待する。つまり熾烈な生存競争から開放され余暇を手に入れた人間(余暇の人と呼ぶ)、とくに知識を得ることに喜びを見出せる者(哲学の人と呼ぶ)の登場である。余暇の人と哲学の人は同一とは限らないので注意。というのも、狩猟採集民、農耕民の行った科学っぽい活動を実際に行なったのは哲学の人かもしれないが、その人は生存という目的と達成すべく科学っぽい活動をしたならば、これは余暇の人では無いからである。

 哲学の人が真に科学っぽい活動に精を出せるようになるのは当然余暇を得たときだろう。どのような人々が余暇を得られるのかは難しい問題だがある社会の中に余暇を得られるものが現れるということは想像に難くない。本題となる問題は「余暇を得た哲学の人はどのような科学っぽいことをするか」という点であるが、これは人類の歴史を見るのが確実のように思える。だがその前に記録に残っていない科学っぽい活動を考えてみたい。そのために、今現在我々の持つ妥当らしい知識を元に考える。

 子供のなんでなんで期に注目したい。これは小さな子供がその両親などに対して様々な「なぜ」という問いを問いかけ親を困らせる時期として知られるが、これと同じ時期がはるか昔の子供にも合ったと考えることで、子供達を哲学の人と捉えてみる。もっとも、大抵の場合子供にその問題を解決するための能力は備わっておらず、問題を提起するだけに終わり問題の解決は大人たちに委ねられる。提起された問題が大人たちに説明可能な問題ならば、大人たちはきっと答えてくれるだろう。しかし、問が例えば「この世界はどうやって始まったの」といった極めて難しい問題であった場合大人たちはどう答えるだろう。

回答のパターンはいくつかに分けられ、「わからないのでわからない旨を伝える」「無視する」「その場しのぎの回答をする」に大きく分けられるはずだ。どの回答を取るかは回答者である大人たちによるが、子供を最も納得させるのは「その場しのぎの回答」であろう。そして、うまいその場しのぎの回答はコミュニティの中で共通の回答となって広がっていくと考えられはしないだろうか。だとするならばこのような「その場しのぎの回答」は子供が提起する問題の数だけ与えられることとなり、コミュニティ内で「世界の始まり」などの難問に回答を与える知識群ができ、少しずつ修正や改良が加えられながら根付いていくこととなるだろう。この活動は我々が行う科学のそれとはまるで異なるものであるが、身の回りから生まれた問題を解決するため、回答者が持てる知識を用いて、少なくとも「無視」や「分からない」よりも納得感のある回答を導いたその活動は「科学っぽい活動」として捉えられないだろうか。

 さて、この「その場しのぎの回答」が根付いた社会の中で、自ら問題解決のために活動できるほどの余暇を持つ哲学の人が現れ、「その場しのぎの回答」に疑問をいだいたらどのような活動をするだろうか。まず、すでに知られている回答を収集することだろう。集めた知識群を眺めて次に行うことは人により分かれるだろうがこれも次のようにまとめられると思う。一つが「各種回答を否定し自ら回答を与える」これはなぜ「その場しのぎの回答」が生まれたかを考えるととても難しい試みになることが予想される。もう一方が「知識群の統合を図る」これは部分的にでも全体的にでもすでに社会の中で知られている知識を認めこれらを統一的に説明できるいわば理論を構築する試みである。前者はすでに考えたように「科学っぽい活動」と見なせそうであり、後者に至っては理論の構築によりより科学っぽくなっている。

 今注目したいのは「知識群の統合を図る」方である。統合に成功した場合、離散的であった「その場しのぎの回答」は一つの理論として連続的に語れるようになる。そして本来コミュニティの中に根ざしていた知識群であるため、それを統一した理論も同様にコミュニティの中で受け入れられていくことが予想される。もしもその場しのぎの回答に人間的な神を根拠に問題解決を試みたならば、理論はたくさんの神々で彩られた一つの神話として出来上がるだろう。そして実際にこの活動をしたのが古代ギリシアホメロスといった詩人と見て取ることはできないだろうか。

 このように考えることで人間の「科学っぽい活動」から神話の誕生を語ることができる。そしてこの統一化された神話からまた新たな反省や知識が生まれ新たな「科学っぽい活動へと続いていく。そのために統一化された神話の根ざした社会において、暇な哲学の人たちの科学っぽい活動を次回以降考えていきたい。