インファーネスひみつきち

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形而上世界論なぐり書き

世界理解を望むとき、その本質を捉えようとすればするほど形而上学的な難解な問題が出てくることでしょう。ここで本質を捉えたい思いをこらえて、目に見える世界をそのまま眺めるという一見本質理解とは異なりそうな行動を取ってみます。すると形而上の話は一旦棚に上げられ、ひとまず自然そのものを眺めるという発想により、様々な経験則を得ることができます。それにより得られた人類の一つの結晶が自然科学でしょう。形而上の話を保留にすることで、同じ場所で永遠と踏む足踏みをやめて、とりあえず前に進むという行為により自然科学は生まれたのです。すなわち、自然科学は形而上学の対象としていた範囲と比べると極めて狭い学問であります。しかし形而上学者は自らが対象とする範囲を具体的に知りませんが、自然科学者は自然の形而上学的な根本を語りはしませんが自身(自身ら)の認識した現象が自然科学の対象となる事を知っています。すなわち、なぜ形而上学が自然科学の対象から外れるかというと、まず形而上の事柄は自身(自身ら)は認識することができないから。そして例えある者が形而上学的とも言える神秘体験をしたとしても、それはその者における神秘体験であって、自然科学者一般の体験とはなり得ない(現になっていない)からであります。自らの身の回りに起こり、かつ、仲間の自然科学者も同様な体験をして、つまり現象を共有できて初めてその現象は自然科学の対象となるのです。

 これによって、我々は自然科学という新たな世界への理解の方法を得ました。そしてその方法は大きな成功を納め続けています。その道のりを眺めることで我々の行う自然科学の性質を見てみましょう。まず重要なこととして、現代に行われている科学と、過去に行われていた科学は同じではありません。単純に古い科学よりも新しい科学の方が豊富な知識を持ちます。これは日々科学に勤しむ者たちの活動を考えれば明らかでありますが、そのほかの違いとして科学者たちの科学に対する認識の違いがあります。例えば、その昔の科学者たちはニュートンの力学により世界のあらゆる物理現象を完全に理解できると考えており、その結果ラプラスの悪魔などと言う化け物が生まれました。しかし実験を進めていくと、その認識は誤りであることがわかってきました。電磁気の現象は力学とは異なる電磁気学によって説明されます。これにより古い科学者は力学万能論を捨て、少なくとも力学-電磁気学万能論に切り替える必要がありました。しかしやはりその力学-電磁気学万能論も改める必要が出てくるのです。このように科学とは時代によりその体系を変えてきました。その体系変化は理論と実験の比較、そして現象の発見からなります。実験は現象を作り出すことに対応していて、すなわち我々は現象を認識して、その認識と理論とを比べて不一致があったときに理論の修正をおこうなうのです。既に述べたとおり、認識や比較に関する哲学的な考察を科学は保留にしています。もしもここで認識について問おうとしたら、その場足踏みを続けることになるでしょう。それは哲学者にでも任せようと言うのが科学者のあり方なのです。

 ですが科学者も部分的に哲学を行う者なので、認識や比較を考察することがあります。科学の歴史の中で最も衝撃的と思われる科学の哲学的考察は量子論として形作られました。これは先の力学-電磁気学万能論も昔の理論にした考察で、当時科学者たちは、科学の対象となる現象を完全に把握できると考えていました。物質の質量だとか速さを正確に知ることができると思っていました。しかしそれは、より精密で細かい実験を繰り返していくうちに疑わしくなり、ついには我々は現象を完全に正確に把握することはできないと結論づけました。これら古い科学を古典論、新しい科学を量子論と言います。力学万能論から力学-電磁気学万能論への進化は新しい現象の発見と理論の修正によりなされましたが、古典論から量子論への進化は科学の仕組みそのものの修正、つまり科学に必須の哲学的用語「認識」の修正によってなされた進化なのです。古い科学の認識は「対象の物理量を把握する」ことであり、一方量子論のいう認識は「対象の物理量の確率分布を得る」となります。

 このように科学は進化を続けています。そして今現在の科学もその進化の途中にあるとみなすべきであります。実際、現代の科学は我々の身の回りの現象を全て説明するに至っていませんので、世界理解を望むものとしてより優れた科学へと進化させるのよう試みるのは明らかです。しかし、今後科学がどのように進化してゆくかは自明ではありません。新たな現象が発見されるでしょうし、過去に科学の根本たる認識の仕組みについての修正がなされた実績がある以上より深い哲学的な修正が行われうるも可能性があります。はたして、このとき得られた新しい科学は科学なのでしょうか。そしていずれ科学の活動は過去に保留とした哲学の問題へと合流することでしょう。その時科学と哲学の違いが曖昧となります。これを科学の完成と見ることもできるでしょうが、科学の誕生と同時に保留にした哲学の問題が再浮上する、哲学の誕生とも言えるでしょう。ここに科学と哲学の連続性が見られます。

 

 さて、今述べた完成した科学は現代の科学とは異なるまだ存在しない架空の科学でありますが、科学者たちの彼岸ともいえる科学であります。そして科学者たちはその彼岸へ向けて日々活動しており遠い未来我々はその領地に達することでしょう。仮にどこかで行き詰れば、つまりこれ以上進展が見込めなかったり上で述べたような哲学的命題に取り組む必要が出たとき、そこが完成した科学となり得るでしょう。

 ここで科学一般に成り立つと思われる科学の目的をあげてみますと「皆共通に認識できる現象を確かなものとしてその現象を説明しうる理論を構成する事」と言えるでしょう。特に現象を確かなものとする事が重要であり、もし認識した現象に疑問を抱いたら、それは哲学の二の舞となることは既に述べました。科学における現象を説明する理論とは力学だとか電磁気学がそれになりますが、全く別の仕方で現象を説明する方法があります。その一つが神話的説明であります。世界の神話には神話により様々な世界観が展開され、その物語の中に我々が生活する現実世界の現象を説明する物語が含まれています。現代の科学者が万有引力による惑星の公転により太陽の動きを説明するように、神話に精通する者は例えば天上における神々の動きで持って惑星の公転を説明するでしょう。仮に一連の神の物語を科学における力学や電磁気学と行った理論と同等に捉えるならば、神話は上に述べた科学の目的を果たすことができるのがわかります。

 このような神話と承知の科学とを比較してみましょう。ここでの神話は「我々の世界とは異なる天上の世界に神々がいて、その神々の運動が我々の世界における天体の運動として現れる」というある架空の神話の世界観に着目します。科学では天体の運動を力学と万有引力の法則で精密に説明します。神話の場合はどうでしょう。まず、この世界観だけでは天体が運動することは説明しても、なぜあのような運動をするのかがわからないためもっと詳細な神々の性質などを説明する必要があります。そのため例えばマーズなる神がいたとして、この神は「なになにという法則によって天上界を動き回るのだ」などという説明をしたとしましょう。この「なになにという法則」に実際の火星の運動周期を当てはめれば確かに神話でも火星の運動を正確に把握することができますが、一般にそのような「なになにという法則」を得るのは困難であり、実際の天体の運動との対応を完全なものにするのは不可能でしょう。しかし仮に「なになにという法則」が得られたとき神話ではそれをどのように説明するでしょうか。天上の世界やどのような神を考えるかにもよりますが仮に次のように考えてみてはどうでしょうか「神は自身の自宅を持っていて、我々と同じようにそこで眠ります。目が覚めたら、自宅を出て、神の街にある各所を渡り歩くのです。そこで神は労働をしたり、なにかを食べたり遊んだりするのです。そして疲れた神は自宅に帰り休むのです。この天上における神の動きが我々の眺める天体の運動と連動しており、夜空の星々の運動を調べることは天上の神の活動を調べることに対応しております。更に神も気まぐれがあるため、まれに現れる予想に反する天体の動きは神の気まぐれの活動によるものなのです」と。これでは法則と呼べないかもしれませんが、天体の運動を説明し、かつ神話として神の活動も表しています。もしもより厳密に神の活動を書き下したならば、実際の天体の運動と神の活動はより強い一致を見せるでしょうが、すでに述べた通り、そのようなものを書き下すのは困難が予想されます。

 さて、こじつけがましい例ではありますが以上の「なになにという法則」によって神話も科学と同様現実世界の現象を説明しうる例を示しました。ここで、上の法則の例をより詳細に解析すべく、神の街の地図を作成し神の活動を考察してみたり、天界と地上の天体との運動の関係を調べようとしたとき一体何が得られるでしょうか。神々の動きを幾何と言った数学を用いて解析しようとしたら科学における例えばケプラーの法則のようなものが得られはしないでしょうか。得られたならばその神話の背後には科学が隠れていた事となります。得られなかったならばその神話は純粋神話として、科学とは全く異なる独立した理論と言えないでしょうか。また、神話の中に科学が隠れていたとき改めて神話と科学の違いを考えると、科学の法則に神という人格を当てはめているかいないかということが言えます(つまり表現の仕方の違い)。ここで両者の真理性(それがこの世の真理であることの可能性)を考えると、まず両者は根本は科学という同じ理論であるので、科学の力学と言った理論が誤り(つまり科学では現象を説明しきれない)としたら同時に科学を内に含む神話も誤りとなります。一方で、科学の力学と言った理論は完全に現象を説明できたとしても、人間の認識することのできない神が確かに天上の世界で様々な活動を繰り広げていたとしたら(つまり科学が保留とした形而上学的命題を考慮したら)、神を考慮しなかった科学は誤りとなり、神の活動で持って科学的な説明をしていた神話は少なくともただの科学よりかは正しいこととなります。ここに科学の神話的説明可能性と神話の真理性を示したつもりであります。

 

 以上の話の途中で出てきた科学から完全に独立した神話はどう考えるべきでしょうか。認識を説明しようとした結果得られた理論という意味で、目的は科学とにていますが、内容が違うという点ですでにある科学に新たな視点を与え、科学の進化を助けるものとなるかもしれません。また、科学と全く異なる学問の誕生を意味しているのかもしれません。

 ここまで「皆共通に認識できる現象を確かなものとしてその現象を説明しうる理論を構成する」という目的を持った言うならば広い意味での科学を考えてきました。この目的に別の条件を付け加えたり、すべてを否定して全く別の方法をとったりしたら一体何が得られるでしょう。例えば聖書のような特別な書物の中に描かれている事柄を確かなものとしたら上で述べた科学とはまた違ったものが得られるでしょう。あるいは、すべてを疑い自分の意識の存在を確かなものとして出発することも考えられます。何れにせよどれもそれ固有の理論が展開されることでしょう。このようにして理論を得ようとする試みはフィロソフィアという言葉が適切でしょう。とするならば、科学と哲学の特別な違いはなく、哲学における特別な条件のもと展開されたものが科学と言えます。また同様に前に述べた科学的な神話や、科学とは独立な神話も哲学の一部といえ、哲学という大きな枠組みから眺めれば(実生活に役立つかは無視しフィロソフィアの立場から見て)、科学との違いは微々たるものと見れます。

 

 これまで、出来上がった理論のことを重点的に考えてきましたが、今度は理論を組み立てていくことを考えていきます。理論を組み立てるのは他でもない我々ですが、理論の形は多種多様であります。そして、それらの大半、もしくは全てが現象の説明をしきれない理論であるでしょうが、どれも多少なりともその理論を作り上げた者の認識した現象を説明する能力を有しているはずです。とくに、自然理解のための理論を作ろうとしたら、まず自然を認識し、それを説明できる理論を組み立てるというのが大半の方法です。それでは、理論はどのように現象を説明するのでしょうか。一般に理論というのはその理論における原理的事柄から演繹的に別の命題を導いて展開されていく、言うならば知識体系であります。それゆえ、理論が何かを説明しようとする時、一見特別な意味を持たなそうな原理を、パズル的に組み立てて目的とする現象に准ずる命題を導ければ、それは理論的に説明ができたことになります。このとき、理論を組み立てる上で重要な二つの要素が見えます。一つは原理的命題であり、もう一つは理論の組み立て方です。

 原理的命題は比較的人間の自由に設定できる要素です。例えば上に挙げた天体の運動を説明するニュートン力学と神話では、前者はケプラーの法則ガリレイの運動論などを原理と置くと得られ(もちろんケプラーの法則ガリレイ運動論にも原理があり、ニュートン力学の原理はそれらを原理にもつとも言える)、後者は天上世界と神々、そして天上世界と我々の世界との関係が原理に挙げられるでしょう。

 一方、組み立て方の方はある程度束縛があるようです。この組み立て方というのはつまり論理のことを言っているのですが、人間の用いる論理は教育を受けていてもいなくても、大まかな点では一致していると言えます。例えば、三毛猫は猫だし、猫は動物なので、三毛猫は動物である。という推論は誰もが納得するだろうし、すべての猫は可愛いく、三毛猫は猫なので、三毛猫は可愛いという推論もまた納得するでしょう。我々は特別な予備知識なくして、一般的に論理学としてまとめられる論理に一部不可解な推論もあるが、その大部分を苦労することなく受け入れる事ができます。これは我々にはある程度共通の論理があることの現れと言えます。この当たり前な論理がニュートン力学や先の神話にも用いられており、そのほか数多くの理論にも用いられています。これを理由に人間の理論に用いられる論理は束縛されていると言ったのです。この束縛から解放されたとき、我々はどのような理論を築くのでしょうか。もしくは、我々はどのような論理を用いるのでしょうか。このような論理のことを非人間的論理などと呼ぶことにしましょう。おそらく非人間的論理の良い例は矛盾でしょう。これは A=A という常識的な人間論理に対して、A≠A という不可解を含む論理です。もっとも、このような論理を人間が理解(納得)する事ができるとは経験的に思えませんが、もしそのような非人間論理を理解することができる「何か」を考えてみたら何が言えるでしょう。

 「何か」について考える前に、原理と論理について少し考えてみましょう。原理を論理で展開して得られた知識体系を理論と言いましたが、原理、論理の集まりが理論らしくあるためには原理、論理の両方が必要です。つまり論理の役割は原理を組み合わせて新しい命題を作る操作にあるため、論理だけでは特別な意味を持ち得ません。そこに原理を与えて意味を与えるのです。また逆に、原理だけではただの一方的な主張に過ぎませんが、そこに論理という操作を加える事で様々な知識を導き出し、理論体系を築く事ができます。このように論理の本質は操作にあるので、操作と呼びたいとこですが、ここでは論理ということにします。これら原理と論理を与えれば理論が得られるわけですが、必ずしも厳密さが必要なわけではありません。つまりどこかの誰かが好き勝手に原理と論理を指定して理論を築き、たとえそれに矛盾が含まれていたとしても、それは論理としての資格を持つということです(このような人間にとって価値を持たない理論に価値を見出す存在として、先ほど考えた「なにか」の可能性が生まれる)。そのような理論はおそらく我々の身の回りの現象を説明したりはしませんが、それでも理論なのです。また、例えば誰かがハリーポッターの世界を説明すべく理論を築いたとすれば、おそらくその理論はハリーポッターの世界をよく説明するでしょう。しかし我々の住む現実世界の説明は難しいでしょう。理論はフィクション的でも良いのですし、必ずしも「我々人間」に理解できる必要はないのです。そして、ハリーポッター理論を考えるとわかりやすいですが、理論は世界観を与ええます。

 

 さて、この辺で上に示した「なにか」について考えてみたいのですが、今わかっている「なにか」の性質は非人間論理を理解できるということだけです。これはつまり我々人間が矛盾として切り捨てる問題を理解し納得することができるということなのですが、おそらく我々が「なにか」に提供できる矛盾の問題もたかが知れていると考えるべきでしょう。そのため、我々の理解することのできない論理から矛盾を導き出す「なんか」が必要なのですが、「なにか」も「なんか」も人間の理解し得ない論理を理解するという意味では同じなので、特に区別することなく「なにか」と呼びましょう。つまり「なにか」は矛盾を理解し、さらに能動的に別の論理を展開しうるものとなりました。ここで重要なのは「なにか」は一つではないということです。人間論理では矛盾を理解できませんが、矛盾を理解できる「なんか1」があるとしましょう。「なんか1」がどのような論理を用いるのかはわかりませんが「なんか1」でも理解できない矛盾が合ったとしたら、「なんか2」を考えて「なんか2」はその矛盾を理解するものとすればよいのです。このように「なんか」はいくらでも考えられますが、人間論理を理解しないが全く別の論理を理解する「なんかα」を考えても良さそうです。おそらくなんの論理も理解しない「なんかφ」を考えても良いでしょう。このように考えると、私達は人間論理を理解するわけですが、私達も「なんか」の一つ「なんかλ」と考えることもできそうです。すると「なんか」とは論理を理解し展開するものとまとめられます。さらに、人間にとっては様々な論理を一つにまとめようとしたら矛盾が出て困ってしまうでしょうが、この仮想的な「なんか」たち(なんかλは除く)には矛盾が許されているので、すべての「なんか」の理論を一つにまとめた論理を理解する「なんかω」も考えられます。今ここにすべての論理を理解する化け物的な「なんかω」が現れました。

 今までの考えてきた「なんか」達は我々人間である「なんかλ」を除いて皆仮想的なものですので(実際は「なんかλ」をはっきりこれと示すのは難しそうですが)、多少我々の好きな設定を与えても良いでしょう。なので「なんか」達に上の論理と原理で考えた原理を考えてもらって、理論を作れるだけ作ってもらうことにします。これは人間も「なんか」達の一部として、人間の考えうる原理を論理で展開して得られる理論を一つ残らず作り上げてもらいます。そのような理論たちの中には自然科学のような優れた理論は殆ど無いでしょう。その殆どに特別な意味はなくただの机上の空論に過ぎません。しかしそれらの理論の中には前に考えた神話やニュートン力学、すでに考えられている各種哲学なども含まれることでしょう。更に今後人間が生み出す理論も含まれているはずです。一方さっき考えた「なんかω」はどのような理論を作り上げるでしょうか。もちろん想像もできませんが、その中には「なんかλ」つまり人間の理論が含まれているはずです。さらに人間の理論では説明できない現象も説明しうる可能性があります。

 理論は世界観としてまとめられるという話をしました。それでは「なんか」達が考える世界はどのようなものでしょうか。「なんかλ(人間)の考える世界は我々にも理解できそうですが、「なんかω」の世界となるとこれは手に負えなそうです。「なんかω」は全ての理論をまとめ上げた理論を理解する存在でしたので、それ自身は世界を完全に理解していることになります。そうすると全ての世界はいわば玉ねぎのような層状になっており、一番外側に「なんかω」がいるわけです。このような特別でいわば王者的世界を「形而上世界」と呼び、その世界を調べる試みを「形而上世界論」と呼び、そのような世界を理解するということはそのうちに含まれる科学の世界だとか神話の世界、これから人間が作りだす科学の世界を理解することでもあります。

 以上により世界理解のための形而上世界論という学問の可能性をしめしたつもりであります。