インファーネスひみつきち

考え事を赤裸々に公開します。指摘、批判、感想すべて受け付けます。読みづらい?そのうちそのうち直します。

形而上世界論なぐり書き

世界理解を望むとき、その本質を捉えようとすればするほど形而上学的な難解な問題が出てくることでしょう。ここで本質を捉えたい思いをこらえて、目に見える世界をそのまま眺めるという一見本質理解とは異なりそうな行動を取ってみます。すると形而上の話は一旦棚に上げられ、ひとまず自然そのものを眺めるという発想により、様々な経験則を得ることができます。それにより得られた人類の一つの結晶が自然科学でしょう。形而上の話を保留にすることで、同じ場所で永遠と踏む足踏みをやめて、とりあえず前に進むという行為により自然科学は生まれたのです。すなわち、自然科学は形而上学の対象としていた範囲と比べると極めて狭い学問であります。しかし形而上学者は自らが対象とする範囲を具体的に知りませんが、自然科学者は自然の形而上学的な根本を語りはしませんが自身(自身ら)の認識した現象が自然科学の対象となる事を知っています。すなわち、なぜ形而上学が自然科学の対象から外れるかというと、まず形而上の事柄は自身(自身ら)は認識することができないから。そして例えある者が形而上学的とも言える神秘体験をしたとしても、それはその者における神秘体験であって、自然科学者一般の体験とはなり得ない(現になっていない)からであります。自らの身の回りに起こり、かつ、仲間の自然科学者も同様な体験をして、つまり現象を共有できて初めてその現象は自然科学の対象となるのです。

 これによって、我々は自然科学という新たな世界への理解の方法を得ました。そしてその方法は大きな成功を納め続けています。その道のりを眺めることで我々の行う自然科学の性質を見てみましょう。まず重要なこととして、現代に行われている科学と、過去に行われていた科学は同じではありません。単純に古い科学よりも新しい科学の方が豊富な知識を持ちます。これは日々科学に勤しむ者たちの活動を考えれば明らかでありますが、そのほかの違いとして科学者たちの科学に対する認識の違いがあります。例えば、その昔の科学者たちはニュートンの力学により世界のあらゆる物理現象を完全に理解できると考えており、その結果ラプラスの悪魔などと言う化け物が生まれました。しかし実験を進めていくと、その認識は誤りであることがわかってきました。電磁気の現象は力学とは異なる電磁気学によって説明されます。これにより古い科学者は力学万能論を捨て、少なくとも力学-電磁気学万能論に切り替える必要がありました。しかしやはりその力学-電磁気学万能論も改める必要が出てくるのです。このように科学とは時代によりその体系を変えてきました。その体系変化は理論と実験の比較、そして現象の発見からなります。実験は現象を作り出すことに対応していて、すなわち我々は現象を認識して、その認識と理論とを比べて不一致があったときに理論の修正をおこうなうのです。既に述べたとおり、認識や比較に関する哲学的な考察を科学は保留にしています。もしもここで認識について問おうとしたら、その場足踏みを続けることになるでしょう。それは哲学者にでも任せようと言うのが科学者のあり方なのです。

 ですが科学者も部分的に哲学を行う者なので、認識や比較を考察することがあります。科学の歴史の中で最も衝撃的と思われる科学の哲学的考察は量子論として形作られました。これは先の力学-電磁気学万能論も昔の理論にした考察で、当時科学者たちは、科学の対象となる現象を完全に把握できると考えていました。物質の質量だとか速さを正確に知ることができると思っていました。しかしそれは、より精密で細かい実験を繰り返していくうちに疑わしくなり、ついには我々は現象を完全に正確に把握することはできないと結論づけました。これら古い科学を古典論、新しい科学を量子論と言います。力学万能論から力学-電磁気学万能論への進化は新しい現象の発見と理論の修正によりなされましたが、古典論から量子論への進化は科学の仕組みそのものの修正、つまり科学に必須の哲学的用語「認識」の修正によってなされた進化なのです。古い科学の認識は「対象の物理量を把握する」ことであり、一方量子論のいう認識は「対象の物理量の確率分布を得る」となります。

 このように科学は進化を続けています。そして今現在の科学もその進化の途中にあるとみなすべきであります。実際、現代の科学は我々の身の回りの現象を全て説明するに至っていませんので、世界理解を望むものとしてより優れた科学へと進化させるのよう試みるのは明らかです。しかし、今後科学がどのように進化してゆくかは自明ではありません。新たな現象が発見されるでしょうし、過去に科学の根本たる認識の仕組みについての修正がなされた実績がある以上より深い哲学的な修正が行われうるも可能性があります。はたして、このとき得られた新しい科学は科学なのでしょうか。そしていずれ科学の活動は過去に保留とした哲学の問題へと合流することでしょう。その時科学と哲学の違いが曖昧となります。これを科学の完成と見ることもできるでしょうが、科学の誕生と同時に保留にした哲学の問題が再浮上する、哲学の誕生とも言えるでしょう。ここに科学と哲学の連続性が見られます。

 

 さて、今述べた完成した科学は現代の科学とは異なるまだ存在しない架空の科学でありますが、科学者たちの彼岸ともいえる科学であります。そして科学者たちはその彼岸へ向けて日々活動しており遠い未来我々はその領地に達することでしょう。仮にどこかで行き詰れば、つまりこれ以上進展が見込めなかったり上で述べたような哲学的命題に取り組む必要が出たとき、そこが完成した科学となり得るでしょう。

 ここで科学一般に成り立つと思われる科学の目的をあげてみますと「皆共通に認識できる現象を確かなものとしてその現象を説明しうる理論を構成する事」と言えるでしょう。特に現象を確かなものとする事が重要であり、もし認識した現象に疑問を抱いたら、それは哲学の二の舞となることは既に述べました。科学における現象を説明する理論とは力学だとか電磁気学がそれになりますが、全く別の仕方で現象を説明する方法があります。その一つが神話的説明であります。世界の神話には神話により様々な世界観が展開され、その物語の中に我々が生活する現実世界の現象を説明する物語が含まれています。現代の科学者が万有引力による惑星の公転により太陽の動きを説明するように、神話に精通する者は例えば天上における神々の動きで持って惑星の公転を説明するでしょう。仮に一連の神の物語を科学における力学や電磁気学と行った理論と同等に捉えるならば、神話は上に述べた科学の目的を果たすことができるのがわかります。

 このような神話と承知の科学とを比較してみましょう。ここでの神話は「我々の世界とは異なる天上の世界に神々がいて、その神々の運動が我々の世界における天体の運動として現れる」というある架空の神話の世界観に着目します。科学では天体の運動を力学と万有引力の法則で精密に説明します。神話の場合はどうでしょう。まず、この世界観だけでは天体が運動することは説明しても、なぜあのような運動をするのかがわからないためもっと詳細な神々の性質などを説明する必要があります。そのため例えばマーズなる神がいたとして、この神は「なになにという法則によって天上界を動き回るのだ」などという説明をしたとしましょう。この「なになにという法則」に実際の火星の運動周期を当てはめれば確かに神話でも火星の運動を正確に把握することができますが、一般にそのような「なになにという法則」を得るのは困難であり、実際の天体の運動との対応を完全なものにするのは不可能でしょう。しかし仮に「なになにという法則」が得られたとき神話ではそれをどのように説明するでしょうか。天上の世界やどのような神を考えるかにもよりますが仮に次のように考えてみてはどうでしょうか「神は自身の自宅を持っていて、我々と同じようにそこで眠ります。目が覚めたら、自宅を出て、神の街にある各所を渡り歩くのです。そこで神は労働をしたり、なにかを食べたり遊んだりするのです。そして疲れた神は自宅に帰り休むのです。この天上における神の動きが我々の眺める天体の運動と連動しており、夜空の星々の運動を調べることは天上の神の活動を調べることに対応しております。更に神も気まぐれがあるため、まれに現れる予想に反する天体の動きは神の気まぐれの活動によるものなのです」と。これでは法則と呼べないかもしれませんが、天体の運動を説明し、かつ神話として神の活動も表しています。もしもより厳密に神の活動を書き下したならば、実際の天体の運動と神の活動はより強い一致を見せるでしょうが、すでに述べた通り、そのようなものを書き下すのは困難が予想されます。

 さて、こじつけがましい例ではありますが以上の「なになにという法則」によって神話も科学と同様現実世界の現象を説明しうる例を示しました。ここで、上の法則の例をより詳細に解析すべく、神の街の地図を作成し神の活動を考察してみたり、天界と地上の天体との運動の関係を調べようとしたとき一体何が得られるでしょうか。神々の動きを幾何と言った数学を用いて解析しようとしたら科学における例えばケプラーの法則のようなものが得られはしないでしょうか。得られたならばその神話の背後には科学が隠れていた事となります。得られなかったならばその神話は純粋神話として、科学とは全く異なる独立した理論と言えないでしょうか。また、神話の中に科学が隠れていたとき改めて神話と科学の違いを考えると、科学の法則に神という人格を当てはめているかいないかということが言えます(つまり表現の仕方の違い)。ここで両者の真理性(それがこの世の真理であることの可能性)を考えると、まず両者は根本は科学という同じ理論であるので、科学の力学と言った理論が誤り(つまり科学では現象を説明しきれない)としたら同時に科学を内に含む神話も誤りとなります。一方で、科学の力学と言った理論は完全に現象を説明できたとしても、人間の認識することのできない神が確かに天上の世界で様々な活動を繰り広げていたとしたら(つまり科学が保留とした形而上学的命題を考慮したら)、神を考慮しなかった科学は誤りとなり、神の活動で持って科学的な説明をしていた神話は少なくともただの科学よりかは正しいこととなります。ここに科学の神話的説明可能性と神話の真理性を示したつもりであります。

 

 以上の話の途中で出てきた科学から完全に独立した神話はどう考えるべきでしょうか。認識を説明しようとした結果得られた理論という意味で、目的は科学とにていますが、内容が違うという点ですでにある科学に新たな視点を与え、科学の進化を助けるものとなるかもしれません。また、科学と全く異なる学問の誕生を意味しているのかもしれません。

 ここまで「皆共通に認識できる現象を確かなものとしてその現象を説明しうる理論を構成する」という目的を持った言うならば広い意味での科学を考えてきました。この目的に別の条件を付け加えたり、すべてを否定して全く別の方法をとったりしたら一体何が得られるでしょう。例えば聖書のような特別な書物の中に描かれている事柄を確かなものとしたら上で述べた科学とはまた違ったものが得られるでしょう。あるいは、すべてを疑い自分の意識の存在を確かなものとして出発することも考えられます。何れにせよどれもそれ固有の理論が展開されることでしょう。このようにして理論を得ようとする試みはフィロソフィアという言葉が適切でしょう。とするならば、科学と哲学の特別な違いはなく、哲学における特別な条件のもと展開されたものが科学と言えます。また同様に前に述べた科学的な神話や、科学とは独立な神話も哲学の一部といえ、哲学という大きな枠組みから眺めれば(実生活に役立つかは無視しフィロソフィアの立場から見て)、科学との違いは微々たるものと見れます。

 

 これまで、出来上がった理論のことを重点的に考えてきましたが、今度は理論を組み立てていくことを考えていきます。理論を組み立てるのは他でもない我々ですが、理論の形は多種多様であります。そして、それらの大半、もしくは全てが現象の説明をしきれない理論であるでしょうが、どれも多少なりともその理論を作り上げた者の認識した現象を説明する能力を有しているはずです。とくに、自然理解のための理論を作ろうとしたら、まず自然を認識し、それを説明できる理論を組み立てるというのが大半の方法です。それでは、理論はどのように現象を説明するのでしょうか。一般に理論というのはその理論における原理的事柄から演繹的に別の命題を導いて展開されていく、言うならば知識体系であります。それゆえ、理論が何かを説明しようとする時、一見特別な意味を持たなそうな原理を、パズル的に組み立てて目的とする現象に准ずる命題を導ければ、それは理論的に説明ができたことになります。このとき、理論を組み立てる上で重要な二つの要素が見えます。一つは原理的命題であり、もう一つは理論の組み立て方です。

 原理的命題は比較的人間の自由に設定できる要素です。例えば上に挙げた天体の運動を説明するニュートン力学と神話では、前者はケプラーの法則ガリレイの運動論などを原理と置くと得られ(もちろんケプラーの法則ガリレイ運動論にも原理があり、ニュートン力学の原理はそれらを原理にもつとも言える)、後者は天上世界と神々、そして天上世界と我々の世界との関係が原理に挙げられるでしょう。

 一方、組み立て方の方はある程度束縛があるようです。この組み立て方というのはつまり論理のことを言っているのですが、人間の用いる論理は教育を受けていてもいなくても、大まかな点では一致していると言えます。例えば、三毛猫は猫だし、猫は動物なので、三毛猫は動物である。という推論は誰もが納得するだろうし、すべての猫は可愛いく、三毛猫は猫なので、三毛猫は可愛いという推論もまた納得するでしょう。我々は特別な予備知識なくして、一般的に論理学としてまとめられる論理に一部不可解な推論もあるが、その大部分を苦労することなく受け入れる事ができます。これは我々にはある程度共通の論理があることの現れと言えます。この当たり前な論理がニュートン力学や先の神話にも用いられており、そのほか数多くの理論にも用いられています。これを理由に人間の理論に用いられる論理は束縛されていると言ったのです。この束縛から解放されたとき、我々はどのような理論を築くのでしょうか。もしくは、我々はどのような論理を用いるのでしょうか。このような論理のことを非人間的論理などと呼ぶことにしましょう。おそらく非人間的論理の良い例は矛盾でしょう。これは A=A という常識的な人間論理に対して、A≠A という不可解を含む論理です。もっとも、このような論理を人間が理解(納得)する事ができるとは経験的に思えませんが、もしそのような非人間論理を理解することができる「何か」を考えてみたら何が言えるでしょう。

 「何か」について考える前に、原理と論理について少し考えてみましょう。原理を論理で展開して得られた知識体系を理論と言いましたが、原理、論理の集まりが理論らしくあるためには原理、論理の両方が必要です。つまり論理の役割は原理を組み合わせて新しい命題を作る操作にあるため、論理だけでは特別な意味を持ち得ません。そこに原理を与えて意味を与えるのです。また逆に、原理だけではただの一方的な主張に過ぎませんが、そこに論理という操作を加える事で様々な知識を導き出し、理論体系を築く事ができます。このように論理の本質は操作にあるので、操作と呼びたいとこですが、ここでは論理ということにします。これら原理と論理を与えれば理論が得られるわけですが、必ずしも厳密さが必要なわけではありません。つまりどこかの誰かが好き勝手に原理と論理を指定して理論を築き、たとえそれに矛盾が含まれていたとしても、それは論理としての資格を持つということです(このような人間にとって価値を持たない理論に価値を見出す存在として、先ほど考えた「なにか」の可能性が生まれる)。そのような理論はおそらく我々の身の回りの現象を説明したりはしませんが、それでも理論なのです。また、例えば誰かがハリーポッターの世界を説明すべく理論を築いたとすれば、おそらくその理論はハリーポッターの世界をよく説明するでしょう。しかし我々の住む現実世界の説明は難しいでしょう。理論はフィクション的でも良いのですし、必ずしも「我々人間」に理解できる必要はないのです。そして、ハリーポッター理論を考えるとわかりやすいですが、理論は世界観を与ええます。

 

 さて、この辺で上に示した「なにか」について考えてみたいのですが、今わかっている「なにか」の性質は非人間論理を理解できるということだけです。これはつまり我々人間が矛盾として切り捨てる問題を理解し納得することができるということなのですが、おそらく我々が「なにか」に提供できる矛盾の問題もたかが知れていると考えるべきでしょう。そのため、我々の理解することのできない論理から矛盾を導き出す「なんか」が必要なのですが、「なにか」も「なんか」も人間の理解し得ない論理を理解するという意味では同じなので、特に区別することなく「なにか」と呼びましょう。つまり「なにか」は矛盾を理解し、さらに能動的に別の論理を展開しうるものとなりました。ここで重要なのは「なにか」は一つではないということです。人間論理では矛盾を理解できませんが、矛盾を理解できる「なんか1」があるとしましょう。「なんか1」がどのような論理を用いるのかはわかりませんが「なんか1」でも理解できない矛盾が合ったとしたら、「なんか2」を考えて「なんか2」はその矛盾を理解するものとすればよいのです。このように「なんか」はいくらでも考えられますが、人間論理を理解しないが全く別の論理を理解する「なんかα」を考えても良さそうです。おそらくなんの論理も理解しない「なんかφ」を考えても良いでしょう。このように考えると、私達は人間論理を理解するわけですが、私達も「なんか」の一つ「なんかλ」と考えることもできそうです。すると「なんか」とは論理を理解し展開するものとまとめられます。さらに、人間にとっては様々な論理を一つにまとめようとしたら矛盾が出て困ってしまうでしょうが、この仮想的な「なんか」たち(なんかλは除く)には矛盾が許されているので、すべての「なんか」の理論を一つにまとめた論理を理解する「なんかω」も考えられます。今ここにすべての論理を理解する化け物的な「なんかω」が現れました。

 今までの考えてきた「なんか」達は我々人間である「なんかλ」を除いて皆仮想的なものですので(実際は「なんかλ」をはっきりこれと示すのは難しそうですが)、多少我々の好きな設定を与えても良いでしょう。なので「なんか」達に上の論理と原理で考えた原理を考えてもらって、理論を作れるだけ作ってもらうことにします。これは人間も「なんか」達の一部として、人間の考えうる原理を論理で展開して得られる理論を一つ残らず作り上げてもらいます。そのような理論たちの中には自然科学のような優れた理論は殆ど無いでしょう。その殆どに特別な意味はなくただの机上の空論に過ぎません。しかしそれらの理論の中には前に考えた神話やニュートン力学、すでに考えられている各種哲学なども含まれることでしょう。更に今後人間が生み出す理論も含まれているはずです。一方さっき考えた「なんかω」はどのような理論を作り上げるでしょうか。もちろん想像もできませんが、その中には「なんかλ」つまり人間の理論が含まれているはずです。さらに人間の理論では説明できない現象も説明しうる可能性があります。

 理論は世界観としてまとめられるという話をしました。それでは「なんか」達が考える世界はどのようなものでしょうか。「なんかλ(人間)の考える世界は我々にも理解できそうですが、「なんかω」の世界となるとこれは手に負えなそうです。「なんかω」は全ての理論をまとめ上げた理論を理解する存在でしたので、それ自身は世界を完全に理解していることになります。そうすると全ての世界はいわば玉ねぎのような層状になっており、一番外側に「なんかω」がいるわけです。このような特別でいわば王者的世界を「形而上世界」と呼び、その世界を調べる試みを「形而上世界論」と呼び、そのような世界を理解するということはそのうちに含まれる科学の世界だとか神話の世界、これから人間が作りだす科学の世界を理解することでもあります。

 以上により世界理解のための形而上世界論という学問の可能性をしめしたつもりであります。

ルッキズムよさらば。

書生「先生、私は絶望しています。この肉体に生まれたばかりに、私は人並みの喜びも得られそうにありません」

先生「君は以前、その人並みの喜びというものをひどく馬鹿にしていたじゃないか。そして君は僕に言ったよ。俗物の喜びなど真なる叡智と比べるにも値しないつまらないものだ。とね」

書生「先生、私は自分の言ったことに誤りがあるとは思いません。しかし新たな考えを得ました。俗物の喜びも知れぬ私に真なる叡智に近づくことができるのかと。それゆえ私は俗物の喜び、つまり人並みの喜びを得ようと試みるのです。」

先生「なるほどね、して、君の言う絶望とはなんだろうか。そして人並みの喜びとは。真の叡智については以前語り合ったね」

書生「はい、アレは意義深い議論でした。私の言う絶望とはずばりこの肉体であります。そして人並みの喜びとは、特に異性との特別な人間関係により得られるもののこと、つまり恋の喜びのことを言いました。」

先生「ふむ、とすると君は君自身の肉体の醜悪さを絶望しているということになるのだろうか」

書生「まさしくそのとおりであります。以前私は同じ講義を受ける女性に、恋心を打ち明けました。しかし彼女は私の心は認めましたが、私の肉体は認めませんでした」

先生「しかし君、もしすべての恋が報われるのであればこの世界の文学や芸術の大半が消え去るぜ。叶わぬ恋もあるから、芽生えた恋が輝くのだろう?」

書生「もちろんそのとおりであります。そして先生は私が失恋の愚痴を言いに来たと思われているのであればそれは誤りです。私が嘆いているのは失恋ではなく、失恋の原因である私の肉体であります」

先生「なるほど、言わんとすることはわかった。だがそれにしても、君の失恋は一体どれほどあるのだろうか?統計を口に出すつもりはないが、たくさんいる女性たちの中には君の肉体を認めてくれる者もいるのではないか?」

書生「思い出したのです、私のかつての失恋はすべてこの醜悪さによるものだと。確かに私の肉体を認めてくれる者もいるでしょうが、その者は一体どこにいるのでしょう。私の人生において出会える女性の数などたかが知れています。かような現状において決して多くない夢の女性の存在を期待するのは不合理です。先生は統計を口にすべきでした。どんな人間にとっても恋は確率なのです。そしてこの醜悪さは恋を大きく不利にします」

先生「なるほど。君の言う絶望、理解したつもりだ。よろしい、実は僕も以前似たようなことを考えていたことがあるんだ」

書生「やはりそうでしたか!私がここまで赤裸々に事を語れているのは他でもない先生に対する親近感からなのです」

先生「ふむ、何も言うまい」

書生「いえ、言ってください。先生の考えをお聞きするために私はここにいるのです」

先生「コホン、今回の問題は極めて社会的な問題であります。恋は確率と言う君ならよく分かることでしょう。それ故この問題を解決するためには一人の力では足りません。社会全体として社会の改革が必要なのです」

書生「なるほど、わかりました先生のお考え。ズバリ醜悪の考え方を変更しようというのでしょう。そのため新たな概念を受け入れられるような社会の改革とおっしゃられたのだ」

先生「おおむね違います。まあ聞きなさい。」

先生「肉体の醜悪さによる不都合は何も恋愛に始まったことではありません。人前に立つもの、それは政治家や音楽家のような者たちが素晴らしい思想や才能を持っているにも関わらず、醜悪さを理由に表舞台から姿を消した例を私は知っていますし、私自身本来得られたであろう仕事を容姿を理由に得られなかった経験があります」

先生「かような現状はすべて人の精神を包み込んでいる肉体の印象によるものです。精神は人を包み込む環境や本人の経験により変化し、どんなに心の汚れた者も浄化の可能性があります。しかし先天的な肉体はそうは行きません」

先生「問題の大本は本来注目されるべき精神が、肉体という分厚い革をまとって見えなくなっていることであります。そして、その偽りの革に注目してしまい、精神を軽視してしまう人間の性質にあります。男たちが美しい女性につい視線を向けてしまうのはこのためであります」

書生「ぐうの音も出ませぬ。ではどうすれば肉体の印象に惑わされれうことなく精神を見つめることができるのでしょうか」

先生「思うに、それは不可能であります。確かに人間は精神こそ重視されるべき存在。しかし肉体なくして人間はありえません。もしそれを可能とするならば我々は肉体を捨て去る必要があります。しかしこれは困難であります。そのため現実的な解決の方法として、肉体の印象をゼロとは言わないが、小さくしようという試みが考えられます」

書生「その試みとは・・・」

先生「ウム、ずばり人類総盲主義である」

書生「じんるい・・・そうめくらしゅぎ・・・!!!」

先生「さよう。人は世界の認識の大半を視覚に頼っています。そして我々の肉体というのも視覚により捉えられます。ならばこの資格を遮断することで肉体の印象を大きく減らそうという考えであります。」

書生「しかし、、、視覚をなくすというのは我々の日常生活に大きな不利益をもたらします。ましてやすべての人類から視覚をなくすなどとなると・・・」

先生「言っただろう。これは社会全体の改革なのだと。人類総盲主義はなにも肉体の印象をなくすことだけが目的ではないのだ」

先生「我々の身の回りを見てご覧。君の言う俗物たちを。視覚的にきらびやかなもので溢れているだろう。あれらは皆人間の欲を掻き立てる。視覚による印象に困っているのは何も我々のような醜悪な人間だけではない。身の回りの様々な商品も同様なのだよ。このような悪しき印象の習慣を断ち切ることで人々はもっと本質を重視するようになる。また、人々は、自分自身を言葉で語る必要が出てくるが、そのために人々はよく考え、より良い言葉を選び使うべく、勉学に勤しむようになるのだ」

先生「加えて、視覚を失った不自由さは傲慢な人間の経済活動を抑制する効果もあり、ある一定水準以上は経済発展が見込めなくなるが、代わりに人々は本質理解のための学問に勤しむようになるのだ。君の言う真の叡智へも近づくものと思われる」

書生「すばらしい!私にナイショでこんなお考えを練られていたとは!」

書生「しかし私にはわかりません。一体どうすれば全人類が目を潰すでしょうか」

先生「ウム、思うに実践あるのみだろう。そこで君に頼みがあるのだ」





 

書生は同じく醜悪な仲間たちとともに社会へ人類総盲主義を訴えて目を潰した。



それから数年。書生の行方は知れず、社会は相変わらずきらびやかな装飾で彩られ、”先生”は美しい女性を横目に街を歩くのであった。

呪われたポリュネイスと神秘主義者の物語

場面

テバイを離れ、一人荒野で生きるポリュネイス。彼はすでに威厳ある人の暮らしを捨て、汚れた一族の呪いを引き受け、目についたものを手当たりしだいに食っていた。そこへ神秘主義者が現れてポリュネイスの有様に惚れ込む。

 

ポリュネイス

俺は腹が減っている。パンの味などもう忘れた。そもそも味とは何だったか。腹を満たすことこそが俺の喜び。大地は尽きることのないごちそうだ。葦は別腹さ。

 

ポリュネイスは犬のように大地を食らい、時折葦をつまむ。

そこへ神秘主義者が大声で歌いながら現れる

 

神秘主義

おお、回る回る。至高のあなたを見習って。ああ、回れ回れ。至高のあなたに従うならば。

 

ポリュネイス

ああ、遠い記憶が蘇る。俺がまだ人だった頃。パンの味を知っていた頃。呪われた父と母が俺に語った祝福の言葉。呪いが放たれる前の翼ある言葉。

 

神秘主義

おお、回る回る。至高のあなたを見習って。ああ、回れ回れ。至高のあなたに従うならば。

 

ポリュネイス

おい、お前はなぜ回る。俺はこんなにも腹が減っているのに。お前はなぜ従う。俺はこんなにも呪われているのに。

 

神秘主義

申し上げたとおりです。至高のあなたを見習って、私は回るのです。

申し上げたとおりです。至高のあなたを見習って、私は従うのです。

 

ポリュネイス

おい、たしかに俺は呪われた身、だがかつては俺も人間だった。そのように粗末に扱わないでほしい。俺にわかるように教えてほしい。

そなたはなぜ回る。なぜ従うのだ。至高のものとはなにものか。私の呪いを解けるのか。

 

神秘主義

申し上げましょう。至高のものとはあなたにほかなりません。それ故あなたに従いまわるのです。あなたの呪いは神秘の証。神秘の実在をあなたが示している。故に私はあなたに従うのです。呪いが力を発揮すればするほど、あなたが狂えば狂うほど、私は神秘へ近づきます。あなたの呪いは私の希望。どうか狂ってください。

 

ポリュネイス

おい人間。お前は俺が示した4つの問のうち2つの問には十分に答えてくれた。だが残りの2つの答えを俺はまだ聞いていない。俺は呪われた身。狂ってお前を殺す前に問いに答えてここを立ち去れ。これは慈悲だ。なぜなら俺はかつて人間だったから。

 

神秘主義

たしかにかつては人間だったのでしょう。しかし今、あなたは呪われた身。あなたの慈悲は呪いの言葉だ。一族の罪に呪われよ。狂え。

 

ポリュネイス

よろしい、俺は呪われた身。母は自らの汚らわしさに耐えかね死んだ。父は呪いを全うせずに死んだ。子が遺産を引き継ぐならば、俺は呪いを引き継ごう。せいぜい狂ってやるさ。

俺は腹が減っている。大地はごちそう。葦は別腹さ。だが偏食はいけない。動くものは久々だ。逃げなくていいのかい。俺は狂人だぜ。

 

神秘主義

おお、回る回る。至高のあなたを見習って。ああ、回れ回れ。至高のあなたに従うならば。

狂人め、呪われよ。狂え。お前の呪いは俺の希望。お前が狂えば狂うほど、俺は神秘に近づく。

狂え狂え、呪われよ。お前の呪いを見習って、ああ、至高のあなたに従います。

 

 

 

神秘主義者は食われた。至高のあなたに従って足だけが逃げていく。ポリュネイスの呪いは一層深まり、彼は久々の動くものを堪能した。夜が彼を覆う頃、足は獣に食われていた。

世界構造についての考え

世界構造についての考え

 世界と名のつくもの(この世界、フィクションの世界、仮想世界、等々)はありますが、その大半は世界の名に値するものと思われます。そしてそのような世界達の間にはある程度の構造が有るように思えます。一般的な感覚で言うと、例えば社会という人間世界は宇宙という科学的物質の世界に組み込まれているし、社会には会社や家族のようなずっと小さな世界が無数に存在します。更にその中には人間個人の言わば意識世界と言える小宇宙が広がっております。一方でハリーポッターの世界のような仮想の世界を示す単語”世界”の用法もあります。このような仮想世界は先程の例での宇宙から始まる世界構造のどこに位置するのでしょうか。このような多義的な意味での世界を拾い上げて全体の構造を探ろうというのが本稿の目的です。

 このような世界の構造を探る試みは古来より行われてきました。古くは神話や宗教の世界観に現れ、新しいものでは天文学によって物質的な世界を体系的に説明しています。しかしここで考える世界は科学の対象となりえる物質的なものに限らず、社会といった非物質的な概念(法律とか物の価値)といった、どちらかというと哲学や倫理の対象となり得るものが支配する世界も考えます。そのため世界の全体構造を考える前に、単一の世界が一体どういうものかということを考えることから始めます。

 一般に、世界と名のつくものには共通して何かしらの「内容」を含むものと思われます。例えば自然科学(天文学)で言うところの「宇宙(世界)」では様々な天体や物質があり、それらは物理法則に従い振る舞い、また宇宙世界はインフレーションから始まり、加速度的に膨張を続けるといったような内容を持ちます。また、地球上の日本列島においては「日本世界」と呼び得るような一つの社会が展開されており、そこには地方のような物理的地理的内容を持ち、さらにそこに住み着く人間たちによって企業といったコミュニティという内容があります。更に日本世界の人間たちは法律や倫理と呼ばれる法則にある程度従って活動しています。そのようなわけで、本稿では「世界とはなにか」という問いに対して「ある程度の内容の集まり」などと答えておきます。このように考えると一つの機械も例えば「パソコン世界」のように語れます。日常的にパソコン世界などという語を使う機会はなかなかありませんが、極端に拒絶する理由はないように思います。事実、パソコンを構成するマザーボードだとかCPU、メモリなどの内容を持ち、電子が電磁気学量子力学のルールに従ってうごめいています。日本世界における地方や人間の活動に対応していると見れば受け入れやすいでしょう。フィクション世界も同様です。ハリーポッター世界ならば、ハリーポッターの土地があり法則があることでしょう。しかし内容の集まりを世界とすると、例えば「空間中にりんご一つと猫が一匹漂っていて、彼らを(我々人間が漠然と理解しているところの)倫理が支配しているものとしている」というような世界を考えてみます。この世界を「猫りんごの倫理世界」などと呼んでおきますが、このような世界は我々にとって不可解極まりないでしょう。意味不明であります。先程の「世界」の理解の仕方では、この不可解な「猫りんごの倫理世界」も世界と認めなくてはいけませんが、これは次のように納得することができます。我々はよく思考実験をします。これは現実世界(この世界も全体像は曖昧でありますが)とは別の言わば「イメージの世界」を用意してその中で実験を行うわけですが、このイメージの世界は我々の自由にことを行うことができます。光の速さで鏡を眺めることもできますし、もしも宝くじがあたったらなどということも想定することができます。これと同じように「猫りんごの倫理世界」を捉えれば、”猫とりんごが我々の倫理観を採用した時彼らはどうするか”のような考えを巡らせるときに想定されるイメージの世界と見れます。

 さて、ここまで考えてきた世界には2つの種類があるように思えます。一つは宇宙世界や日本世界のようなすでに我々の身の回りに何らかの形で実在していると思われる世界で、もう一つはハリーポッターの世界、猫りんごの倫理世界のような人間のイメージによって作られた仮想世界です。 ところで、我々は宇宙世界や日本世界で生きているようですが、我々はこれらの世界を完全に把握してはいないでしょう。宇宙世界は自然科学研究を進めていくことで徐々に明らかになりつつありますがまだ完全ではありません。それに、既に広く知られている知識(宇宙世界の内容)が実は誤りであって、科学の進歩により新しい知識に置き換わることもあります。日本世界も法律などは既に人間によって定められて決まっていますが、それに従う人間の心理は様々で一般的に語るのは困難でしょうし、経済の仕組みも完全に把握することは難しそうです。



とすると、我々が日常的に把握している宇宙世界や日本世界といった世界は「我々を覆い尽くしている漠然とした何か(オリジナル世界)(その実在性は問わない)(その漠然とした何かの正体が宇宙世界や日本世界、また神話世界であれ)自体ではなく、その漠然とした世界の何らかの方法による再現」と言えるでしょう1このように考えると宇宙世界や日本世界はハリポタ世界や猫りんごの倫理世界と本質的な違いは無いと言えるでしょう(どれも結局のところ創作物に過ぎないという意味で)。そして「世界の再現」という試みは人間の知的活動一般を表すものではないでしょうか。というのは、漠然とした我々を覆い尽くしている世界の正体が何であれ、実験観測を手がかりに理論(世界2)を構成していくことで出来上がるのが自然科学の世界ですし、これまた漠然とした我々の経済活動を覆い尽くしている世界を読み解こうとする試みは経済学と呼べるでしょう。また、歴史研究では「今の世界」の手がかりをもとに時間的に異なる「過去の世界」を組み上げて、「実際の過去の世界」へと近づけてゆくことが一つの目標と言えるでしょう。このように様々な方法で世界を築いていくところに、様々な学問を見いだせます。

 我々が把握している宇宙世界とか日本世界のような我々を覆い尽くしているようなオリジナル世界は、イメージに過ぎないのでありました。ところで一体何者がオリジナル世界の存在を想定したり、イメージ、再現したりしているのでしょうか。これは他でもない”我々”でしょう。その我々はオリジナル世界内の存在として自らのいる世界を調べ活動する言わば知者であるわけですが、我々は知的活動の手がかりの多くは我々の経験にあります。そして我々はその経験の出処としてオリジナルの世界を想定するのです。しかし、「我々の経験」とは一体何なのでしょうか。そもそも「我々」とは多数の個人の集まりを言いますが、経験とは主に個人においてなされるものです。そして、ある経験はその経験者固有のものであり、他者と経験の共有はできそうにありません。にもかかわらず「我々の経験」というのは、ここにはいわば「我々の世界」が想定されていることの現れと言えるでしょう。「我々の世界」は「我々」を構成する多数の個人の経験を主成分として構成されますが、ここで個人の経験からも世界が得られることに注目します。つまりこれは個人の意識世界でありますが、「個人の世界」は他の世界とは異なりその個人が真に生きているオリジナルな世界と言えないでしょうか。「宇宙世界」や「猫りんごの倫理世界」は経験や個人のイメージによって想定される世界でありましたが、その個人にとって「個人の世界」は一次的な世界であり、その他の世界は「個人の世界」を手がかりに、個人によって想定(イメージ)される(少なくとも)二次的な世界と言えるでしょう。このような理由で「個人の世界」こそ世界構造を考える上での出発点にふさわしいものと考え、以下世界の構造を探っていきます。

 「個人の世界」はその個人の経験を内容とする世界でした。一方個人は無数にあり、ある個人Aにとって、その他の個人たちの経験は「個人Aの世界」の内容にはなりえません。そのため個人の数だけ独立した「個人の世界」があることがわかります。そしてある個人にとって、その他の個人の世界は「宇宙世界」のような、オリジナル世界を想定しイメージする対象であります。すなわち個人の世界は相対的なものであるということです。「個人Aの世界」はAにとってはありありとしたオリジナルな世界にも関わらず、Bにとって「個人Aの世界」はイメージの対象だということです。ところで経験はどこから来て何が経験を経験足らしめているのでしょうか。どこから来るかという問いに対する常識的な考えは次のようになるでしょう。つまり、いわゆる「宇宙世界」があり、その中に物質としての「私」があり、その私が「宇宙世界」にある様々な物体から物理的相互作用でもって「私」に働きかけが行われ、その働きかけが経験として「私」の意識に入ってくる。といったように「私の世界」の外から何かが与えられることで「私の世界」が拡張していくと(内容が増えていく)いう考えが採用されています。しかしこの考えは「宇宙世界」のような外の世界を想定して成り立っており、「宇宙世界」を採用する直接の理由は特にありません。「宇宙世界」を全く想定せず、いきなり「日本世界」を置いてもいいし、「古事記世界」を置くことも可能でしょう3。また、外の世界を一切想定しないということも可能なように思えます。このように経験の出どころは色々想定できそうですが、何が経験足らしめているのか、つまり意識の起源はどこにあるのかという問いはどう考えればよいでしょうか。この問については本稿では深く言及しませんが、経験の起原では「外の世界」を想定しましたが、経験を経験足らしめているものを考えることは、「私の世界」自体の理解を意味していて、これは「宇宙世界」の天体や物質を支配する性質や法則を調べ上げる自然科学という活動に対応しています。

 さて、このように考えていくと世界の構造というのはある個人が想定する世界構造と、「個人の世界」の性質に大きく依存することがわかります。しかしどんなに極端な世界構造を想定しようとも我々の背中に羽が生えて飛ぶということはなさそうですし、日常的に神様が現れたりはしなさそうです。そのような意味で我々は「漠然とした宇宙世界」に束縛されています4。また、我々が不自由の無い生をおくるためには、「日本世界」における法を破ると国家という「日本世界」を支配する秩序により捕らえられ罰せられます。「漠然とした宇宙世界」の束縛ほど強力ではありませんが、やはり強力な束縛であることに変わりはありません。そのため、個人の想定する世界によって世界構造は大きく変わりうると言っても、少なくとも我々の肉体は「漠然とした宇宙世界」や「日本世界」の要素としてそれらの世界の秩序に束縛されています。また、「日本世界」も地球上の数ある国家間の倫理や平和維持といった「漠然とした地球世界」などと呼べそうな世界のうちにあり、その秩序を破ると他国家からの非難や信頼の喪失、また時として戦争となって制裁されます。一方で、並大抵の凡人にはこの世界で生きるのは難しいと思われますが、身の回りの物質的なものをすべて無視し、自らのイメージにより展開される世界こそ本質と捉え、「外の世界」や外の世界からの束縛を物ともせず自由な意識の思弁の世界に本質を見出して、「個人の世界」以外の存在を想定せず、完全に思弁の中に生きるというのも可能でしょう。

 以上のように世界は階層構造になっており下位の世界は上位の世界の秩序に束縛されているようです。例を図示すると5

{宇宙世界}>{地球世界}>{日本世界、アメリカ世界、}>{個人の世界A、個人の世界B....

となるでしょう。また、外の世界を考えないという極端な世界は

{個人の世界}

という階層構造を持たない単一の世界と見ることができます。ところで「ハリポタ世界」や「猫りんごの倫理世界」は一体どこに位置するのでしょうか。ここまででわかる重要なことは、特定の世界が真理的な意味でどこにあるのかと問うことは意味のないことで、具体的にわかるのはある個人が「個人の世界」に生きているということだけです。一方想定された世界達は階層構造を持ちうるのでありました。そのなかで「ハリポタ世界」や「猫りんごの倫理世界」の位置を考えることは可能です。

 「私」は外の世界から束縛を受けているようではあるのですが、その「外の世界」なるものの全貌はさっぱりわからず、できるのは”ただ何かがあるらしい”と想定することに限ります。そのためどんなに「宇宙世界」や「ハリポタ世界」を想定し、イメージしようともそのような世界が実在するかという点については一切言及できずイメージ物にとどまります。しかしこれは同時にどのような世界の可能性も残っているということでもあります。そのため、「世界構造というのは知者たちが見出すものである」と言い切れはしないでしょうか。その一つの現われが世界各地にある様々な神話、宗教や哲学体系、科学体系、科学的仮説であると言えます。そのような数ある「想定された世界」の中で経験の再現性や、個人の納得感、有用性等によって篩いにかけられ、自然科学だとか優れた哲学理論、宗教として個人たちの間で共有されてゆくのでしょう。

 

 

1 宇宙世界を把握しようとしたとき、我々が把握できるのは宇宙世界のごく小さな部分(特定の天体の運動とか、実験室で行われる有限回の実験)にすぎない。そのため我々は宇宙自体を把握しているわけではない(この点はカントの物自体の考えと同じ)。

一方で人間は限られた情報から法則を見出したり推理することで、世界自体の把握に努める。そしてこの活動は、科学世界においては科学の手法により再現性のある理論(世界)を築くことで成り立つ。

2理論と世界の対応は「世界の理論性、理論の世界再現性(仮名)」を参照 ※まだ書いてない

 

3形而上世界論 なぐり書き”での科学と同値の神話に対応。

4漠然とと言ったのはここで言う「宇宙世界」は科学が想定する世界と同一である必要はなく、まさに漠然と我々がなんとなくのうちに理解している「この世界」という意味で使ったためである。

5この図は言わば神的立場から書いている。もしも人間的立場から書こうとしたら

{漠然とした宇宙の世界}>{漠然とした地球世界}>{漠然とした日本世界、...}>{私の世界、漠然とした誰かAの世界、...

のようになる。漠然とと言うのは全貌が把握できずあくまでイメージであることを示している。

日常の範囲における”信頼”

 ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか。

 そもそも「信じる」とは一体どのようなことなのだろうか。広辞苑によると「①まことと思う。正しいとして疑わない。②間違いないものと認め、頼りにする。信頼する。信用する。③信仰する。帰依する。」とあるが、第一にここでは「信じる」という行動を行っているものは人間であるとする。そのうえで①②③はどれも、人間にも非人間にも適応できる。そこで本稿では信じる対象を人間と非人間に分けることにする。ここで言う人間は日常生活で言うところの人間である。非人間とは電車の時刻表や各種命題、神などである。ところで人間を信じるとか神を信じるというのは、このまま素直に受け取るとなんだか変だ。というのも通常我々が誰か(人間)を信じるとき、それはその人間の発話内容や行動(きちんと仕事をこなしてくれるなど)を信じている。神に対してもただ漠然と神を信じているのではなく、神がいるということ(神の存在)を信じていたり聖典の内容を信じているのだ。つまり、ある対象を信じるというのはその対象から生み出されてくる命題(明日晴れるとか、明日までにやりますとか、私がいますなど)を信じているのである。

 このようにして考えると「信じる」という行動も「偽の可能性のある命題を真と判断すること」などと言え、更に偽の可能性から信じる度合いも見いだせる。これは我々の経験からも確かに考えられ、「電車が時刻表通りに来ると信じる」のと「遅刻魔が時間通りに来ると信じる」は明らかに信じる度合いが異なる。そしてこの2つの違いは偽の可能性の違いと言えるのだ。ところで次のような場合はどうだろう。ある予言を含んだ宗教の聖典があるとして、その予言が外れてしまったとする。この時点で信者はその宗教を信じられなくなってしまうのだろうか。実際にはそんなことはなく、むしろ宗教組織としての団結が深まるという(心理学的な作用)。これは一体どういうことだろう。前に上げた電車や遅刻魔に対する信頼は今までの経験などからの確率という合理的な判断基準から生まれた信頼であった。一方宗教の方は合理性からかけ離れた「個人の信念」からくる信頼と言えないだろうか。思えば遅刻魔についてもこのことが言える。例えば遅刻魔が非常に申し訳無さそうに「次こそは絶対遅れない!」などと言うものなら、経験的根拠がなくても「信じたく」なってしまうものだろう。

 まとめてみよう。人間が何かを信じるというのは、「信じる対象から生み出されてくる命題を信じる」ということであり、そして命題を信じるとは「偽の可能性がありながらその可能性を無視して真と判断すること」である。そして偽の可能性は信じる度合いとして現れる。更に人間には「信じたい」という信念から偽の可能性を無視して過剰に信じてしまうことがある。

 さて、以上を踏まえて人はなぜ信じるのかという問を考えていきたい。そもそも世界に確実 なことは一体どのくらいあるだろうか。いくらでも懐疑的になれるこの世界において全く何も 信じずに生きるとなるとこれは大変だ。そのため人間が日常において日常的に生活する以上この時点で無意識的に無数のものを信じている。通常このような当たり前の事象(陽はまた昇る のようなこと)は信じるとか信じないという対象からは外され、無条件で真とされ、信じると か信じないという用語が出てくるのはもっと信頼の置けない(偽である可能性を無視できな い)対象に対してである。考えるに、当たり前の事象は人間の生活に安定をもたらす。そしてこの当たり前の事象が増えるほど人間の生活は安定へと向かのうだろう。もしもこの世界のすべての事象が当たり前の事象であったら、個人の誕生から死まで、工場のレーンのような合理化された流れによって当たり前に生まれ、生を過ごし、死んでいくの ではないだろうか。この無機質で機械的な「信頼のおける世界」に魅力を見出すのは難しいが確かに安定で、面倒はない。思えばこの無機質な世界に似た世界を「信じる」と言うテーマから導ける。それは徹底的に懐疑的になり何も信じないと言う判断をすることで見出される世界である。この「信頼のおけぬ世界」も「信頼のおける世界」とはまた違った意味で人間らしくない。このような世界では何も信じられず身動きが取れなくなってしまう。このように信頼の問題における極端な事例として二つの極をなす世界が見出され、人間はこの二つの世界の間を揺らぐこととなりそこに安定を見出すのだろう。このような理由で「人間はなぜ何かを信じるのか、信じようとするのか」と言う問いに対して「世界の安定化のため」とここでは答えることにする。

 次に人間はどのようにして「信じ」と言う行動を獲得するのかについて考える。思うに信じると言う行為は次の四つを根拠に行われる。すなわち習慣(経験)、信念、推理(これは習慣からなるとも見れる)、真理的直感である。順に見ていく。習慣は時間通りに電車が来るといった経験を根拠とする。信じる度合いは命題が真である可能性だったので、習慣を根拠に持つ命題は経験的に真である可能性が高いと見れよう。この習慣の極端な例が日はまた昇るのような当たり前な事象である。次に信念は、「信じる」行為者が習慣や推理などの根拠に問わず、単にその行為者の「信じたい」という願望を根拠に持つ。友人にお金を貸す時や、学問分野における自説に対してこの信念はよく働く(働いてしまう)ことだろう。また、信念を根拠に習慣を考えることもできる。つまり「いつもうまくいっていたから今度もうまくと信じたい」といった具合に。次の、推理は、信じられる命題から論理的に新たな命題を見出すことで、信じられる命題と論理法則を根拠に新たな命題を信じるということである。推理はそもそも論理法則を信じているから成し遂げられる。このよう習慣、信念、推理は相互に関係しあっているためより深い哲学的考察が期待できるが、ここではそれを行わずに表面上三つに分けておく。最後の真理的直感だが、これはあくまで信じる行為者に固有の”感じ(純粋経験が近いか)”であり、世界一般の真理とか、世界一般に共通の習慣的知識ではない。何か宗教的、神秘的体験などによって得た直感がそれとなる。この直感においてもはやその命題は真である。たとえ科学や社会的にその命題が偽だと判断されても、形而上世界(形而上世界論参照)を根拠に命題の真を保証するのである。

 最後に本稿の本題である「ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか」という問いに取り組む。この問題のキーポイントは「信じられずにいる」ことであろう。何故信じられずにいるかはここには書ききれないほど様々だろうが、この問は極めて実用的な問なので、実用的な範囲内で考えていくことにする。つまり極度に哲学的にならず適当なところで折り合いをつける。そういう意味で「信じられずにいる」原因を次の2つに分ける。①懐疑精神、②経験や推理による不安。

 まず懐疑精神からである。これは偽の可能性があることを理由に信じずにいるのであった。しかしこれは世界の殆どあらゆることに対して適応可能であるが、それでは懐疑精神を持つものは「信頼できぬ世界」で身動きを取れずにいるのだろうか。実際にはそんなことはなく、平然と日常を送っていることだろう。懐疑精神が発揮されるのは限られた一時だけである。ならば日々平然と送っている日常の中で生きればよいし、懐疑精神による不安を気にすることはないだろう。気にしたところで懐疑精神をまのがれることのできる対象物は「真理的直感」によるものだけであり、それは望んで得られるものではないだろう。なので懐疑精神に悩む者への問の答えは「普段の通り日常を生き、ときおり現れる懐疑精神に怯えながら真理的直感を待て」となる。

 次に経験や推理による不安である。他者を信じ安定した世界を手に入れたものの、その他者の裏切りによって不安定な世界に逆戻りしてしまったり、そのような経験からまた同じことが起きたりするのではないかという推理により他者を信じられずにいる状態である。この状態の主な原因は、対象物の見誤りや過度な期待、過度な推理が挙げられると思う。見誤りは対象物との信頼度が低い状態で信じてしまったことに有り、そしてこれは自身の「信じる」という経験の乏しさから判断を見誤ったり、何かを信じたいという信念の強さから生まれたりするものと思う。更にこの誤算は世界の安定化したいという焦る思いも含まれていることだろう。過度な推理というのは期待はずれになってしまうのではないかなどという懐疑精神に近いものだろう。上で見たように「信じ」が生まれる過程は経験の積み重ね、信念、真理的直感が重要だとしたが、日常の範囲で最も威力を発揮するのは、経験の積み重ねと信念だろう。更に信念は信頼度を無視するのであった。ならば裏切りや期待はずれを回避するには経験を積み重ねるほかなく、信念という不合理であろうと信じるという有る種宗教的信仰に近い信頼が作り出す世界の安定は大きいだろうが、その信頼が壊れたときの世界の不安定化も大きい。

 まとめよう。「ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか」という問いに対する答えは、電車が時刻通りに来ると信じるように、赤信号で車が停まると信じるように、経験を積み重ねて対象物への信頼を日常化する事により獲得方法が有力であり、どこまでも信念に任せるのはギャンブル的である。それ故経験と信念の両方を具合良く織り交ぜるべきである。このような日常の努力を行いつつ、真理的直感を待つのも良い。

意味とはなにか 持論

 意味とはなにか。この問はつまり「”意味”の意味を探ること」に他ならないがこれは一見変な感じがする。しかしここではそのことについては一切考えず”意味”の意味を探る。

 意味を問うときそれは”何か”の意味を問うのである。そしてその”何か”とは様々なものが考えられ、例えば日常的に用いられる各種”単語”であったり、何者かの行動、有様などがあげられる。ここでは「単語」、「行動」、「有様」の3つに焦点を合わせて考えていく。

 「単語」とは日常的に用いられる”りんご”とか”食べる”といったワードのことである。”食べる”のような動詞(単語)を「行動」について考えるときにも文中で出すが、これは「単語」におけるそれとは区別される。「行動」における”食べる”のような動詞は、行動それ自体を意味し、「単語」における動詞はその行動を示す記号である。つまり、「単語」においては”食べる(日)”、”eat(英)”、”essen(独)”はそれぞれ区別されるが、「行動」ではどれも同じ”食べる”という動作を意味する。では「単語」の意味とはなにか。単語とは一般に世界の事物や有様、機能に与えられる記号(名称)である。そのため単語は様々な内容を総まとめにし、そのまとまりにつけられたラベルと言える。ならば「単語」の意味とはその単語に内在する内容のことと言えそうだ。例として単語”りんご”の意味を考えよう。”りんご”という単語は様々な内容を含んでる。例えば「英単語の”appleを日本語で言ったもの」とか「木になる赤くて甘い果実」であったり他にも「米会社appleの日本における略称」なども挙げられる。ここで”りんご”という一つの単語に3つの意味を見出したがこの内の一つ「米会社~」は他の2つと明らかに異なる。これはどういうことだろうか。つまりこういうことである。”りんご”という単語には世界に存在する植物としてのりんごをその内容に含むと同時に、会社としての内容も含んでいるのである。このように一つの単語でもその内容に対応する世界の事物は一つとは限らず、日常生活の中でもそのことは明らかであろう。同様に”食べる”という単語の意味も見てみよう。食べるとは「eatを日本語に訳したもの」や「食べ物を噛んで飲み込むこと(デジタル大辞泉)」といった内容をもつ。また付属語と呼ばれる「りんご”を”食べる」の”を”とか、「猫”が”鳴く」の”が”なども単語として扱わるが、これらの意味は何であろうか。単に「ひらがなの一つ」とか「”か”に濁点がついたもの」といった内容を含むが、これらの内容は付属語としての意味ではない。付属語としては「自立語(りんごや鳴くといった単語)の後に着くある機能を果たす語」といった内容となるだろう(ある機能は付属語により異なる)。

 次に「行動」の意味を探る。この「行動」には多くの場合その行動を示す記号(名称)が与えられ、その名称は先ほど考えた「単語」に該当する。「単語」の意味は、その名称に隠されていた内容であったが、一方で「行動」はある単語に対するその内容自体とも言えるので、「単語」と同じような考えは使えない。ところで「行動」とはそれを起こす何者かがあり、一般的に行動の意味を知りたがる者はその行動によってどんな良いことが生まれるのかとか、どんな動機があってそれを行うのかということに興味があるのである。つまり「行動」の意味とはその行動を起こす者の内に秘める目的と言えそうだ。例をあげよう。りんごを食べている人がいるとして、その人のりんごを食べるという行動にはどのような意味があるのだろうか。その行動の動機は色々考えられる。「お腹を満たす」ためであったり、腐りかけていて「捨てるのはもったいない」から食べたのかもしれない。もしかしたら何者かに食べないと殺されると脅されて、「殺されない」ために食べたのかもしれない。このように第三者として行動を眺めたときその意味は様々で、少なくとも完全な第三者が行動の真の意味を把握することはできそうもない。では行動の真の意味を知っている者は一体誰だろうか。1つ目は、その行動を起こした当の本人であろう。お腹が空いたので「空腹を満たす」ためにりんごを食べたなら、その行動の意味は「空腹を満たす」ことにあるし、脅されたなら「危険回避」という真の意味がある。2つ目は、行動を起こした本人はその行動の意味(意義)を把握していないが、その行動を指示した関係者は行動の意味を把握している場合である。指示者が「明日の食事会は黒い服で来なさい」と支持し、行動者が「黒い服で行く」という行動を起こしたとしよう。行動者はその行動の意味を把握していないが、指示者には、会場であるレストランでは黒い服を着ていくと料金が「割引になる」という立派な意味(意義)がある。とするならば行動者の「黒い服で行く」という行動の意味は指示者により与えられる。ここで注意だが、行動者が、「指示者に逆らうと具合が悪いからとりあえず支持に従っておく」という理由により「黒い服で行く」ならば意味は行動者により与えられるべきだろう。このように「行動」の意味は行動の関係者により様々な意味を持ちうる。そこで行動者を基準として、行動者、指示者がそれぞれ意味を持って行動し、指示している場合(意味が一致している必要はない)、行動者の意味を一次的意味、指示者の意味を二次的意味と呼ぶことにしよう。指示者がまた別の者から支持されて「指示という行動」を起こしている場合、三次的意味が生まれる。また、行動者が完全に意味を持たず機械的に行動を起こしている場合、一次的意味は指示者に帰属される。3つ目。以上の2つはどちらも行動の関係者が意味を把握していた。それでは関係者の誰もが意味を把握していない場合はどうなるだろうか。行動に対する第三者の状況は上の2つの場合と変わらないが、ここで問題なのは行動の関係者も意味を把握していないため、真の意味を知るすべが見当たらないということである。このような状況を「行動」とは区別し「有様」として考える。というのも行動の当事者たちも意味を把握していないならば、その行動の意味を考える手がかりは、既に起こした行動を自ら振り返り反省することで、その行動の意味を考えるほかない。この状況は第三者のそれと全く同じである。そして、その問題となる行動を起こした者がいる(いた)ような世界の「有様」を考えるという意味で、「行動」とは区別する。

 では「有様」の意味は何であろうか。先程誰一人として意味を把握していない「行動」として「有様」を導入したが、これに限らず動植物の振る舞いや世界の有様(物理法則など)といった人間の関与しない事柄や何かが存在するということ(例えばりんごがあるということ)も「有様」として考えられる。「単語」における意味は日常生活の有機的な活動や辞書と言った人為的な定義によって与えられ、「行動」の意味はその行動の関係者の意思により与えられた。「単語」も「行動」も第三者がそれらの意味を”考える”ことは自由に行えて、何らかの方法で答え合わせができた(完全な答えではなくとも大まかにこういった物と言う答えは得られた)。しかし有様の場合は第三者が自ら答えを考える必要があり、その活動に制約はない。しかし既に承知の自然法則や一般的に知られている知識体系により「合理的」であったり「それっぽい」意味を見いだせることが有る。例えば生物学における環境と生存競争、進化論という原理により鳥の羽根の色や形の意味を見いだせる。つまり、例えばジャングルの色と同化することで天敵から逃れたり、効率的に飛べるという意味を得られる。また、数学や物理学の理論によると、ある物理量の微分がゼロならば、その物理量が時間に依存しない物理量であることを意味する。しかし知識体系によって意味を見いだせる問題は全体のごく一部であろう。しかしがむしゃらに導き出した意味よりも、知識体系にのっとって見いだされた意味は有用で、人間に納得感を与え更に知識体系を発展させることもあるだろう。ただしあくまで知識体系に依存していることに注意が必要で、それっぽい意味を見いだせるからと言ってそれが真の意味とは限らない。

 最後に「有様」において人間ではない何かによって既に意味が与えられているような場合を考えてみる。それは例えば真理的な自然法則、知識体系であったり、もしくは神と呼べるような存在によって「有様」に限らずその他あらゆることの意味が人間の活動に関係なく与えられているような場合、神的存在(自然法則含め)が与えた意味こそが一次的意味であり人間の意志により与えられる意味は二次的意味ということになる。仮にこのようなことが事実だとして我々は一次的意味を知ることができるのだろうか。これは全くわからないことである。しかし人間の行う科学や哲学といった学問体系は擬似的に神的存在(学問理論)を仮定しその理解を勧めていくことにほかならないだろう。

意識に対する態度

そもそも意識とは何であろうか。「ある者がありありと感じているそれ」と言ってみたらどうだろうか。これによると意識とは経験である。経験の対象ではなく経験そのものである。経験を経験たらしめている”それ”こそが意識らしいのである。更にこの意識なるものは個々の主体(とりわけ人間)それぞれが固有に有しているらしいのである。しかしそれは正しいのだろうか。そもそも主体の意識はその主体固有のもの(らしい)であるため、主体Aのありありとした経験を主体Bが同様に経験することはできない。そしてこの意識なるものは例えば人間の心臓のように手に取れるものではない(らしい)。いつの間にか現れ、あるときふと消えたりする(少なくともそう感じる 例 眠り)。そのためある主体Aが別の主体Bと見比べるようなことはできない。そもそも「比べる」という行動には「比べ納得した」という経験に依存する。つまりこの行動には意識が関与する。なのである主体にとっては自分以外の主体が意識を有しているかはまるで自明ではないのである。

 そのようなわけで一つ大きな難問が生まれる。すなわち「自分の他に意識を有するものはいるのか」という問題だ。この問題に対する真理的な答えを望むのは欲張りだろう(どのような問題についても言えそうだが)。かと言って一切を諦める訳にはいかないので、代わりに一応の納得の得られる態度を提示しようというのがここでの目的である。

 登場人物は主体Aと客体Bだ(つまりA視点で意識を論ずる)。ここで重要なのはこの主体、客体を健康な人間(つまりいわゆる植物人間でない好きに動き回る人間)とすることである。ABと出会って、Bに意識があるかと考えたとしよう。すでに上で考えたように様々な手続きによりABの意識の有無を簡単に認めるわけにはいかないと結論する。そうは言ってもAは日々の日常をBの意識がないものとして振る舞ってはいない。どんなにBの意識の存在を確信できなくてもABを他の無生物、動植物とは異なる”意思ある主体”として扱ってきたし、これからもそうする”はず”だ。仮にここで真理的にBの意識が無いことが判明したとしてもABを他の無生物、動植物とは異なる”同類”としての特別扱いをする”はず”だ。何故そのように言えるかというと、Aは自らの行動の起原を意識に置いてしまうだろう。それは背中がかゆいという”感じ”から肉体の動作が生まれるように。身体を掻いているBを見たときAはその行動を自らの経験と照らし合わせてBに意識の存在を要請してしまうのだ(毎度そのような推理をするのではなく適当なところで”慣れ”てBに意識が固定される)。このように自分(A)と似たもの(B)にある主の錯覚的意識をAは見出してしまうのだ。それ故にABを他の無生物たちとは異なる特別な、つまり意識を有する意志ある主体として捉えるのだ。

 このように同類である人間には意識を”与えて”しまう。そして知らぬうちに与えてしまった他者の意識を一歩立ち止まって考えることで難問を自覚する。この難問に対する有益な態度はズバリ”人間”の意識を認めることにある。というのも、たとえここで人間の意識を認めない態度を表明したところで、すでに述べたように主体である人間は同類人間に意識を見出してしまう。一時的に意識の有無を疑うことがあってもそれは日々の生活の中のほんの一時であり、生活の大半は意識を認めて過ごしてしまう。だったら、「はじめから素直に意識を認めてしまおう」という態度である。無論これは難問「 自分の他に意識を有するものはいるのか」に対する答えではない。それに人間は日々の生活の中で結論した態度を既に取っている。そのうえで、一歩立ち止まって考えることで難問が生まれるのだ。

 ところで今まで主体(人間)対客体(人間)を考えてきたが、客体が非人間の場合はどうだろうか。上では主体は自身の経験から客体(人間)の意識を”推理”したが、客体が非人間の場合この推理は人間に対するそれと同じようには使えず、この場合は難問に直接取り組む必要がある。そのような意味で客体に非人間を置いたときの意識に関する態度を考えることのほうが日常生活でも重要と言えそうだ(最近のヴィーガン運動につながる)。