インファーネスひみつきち

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意味とはなにか 持論

 意味とはなにか。この問はつまり「”意味”の意味を探ること」に他ならないがこれは一見変な感じがする。しかしここではそのことについては一切考えず”意味”の意味を探る。

 意味を問うときそれは”何か”の意味を問うのである。そしてその”何か”とは様々なものが考えられ、例えば日常的に用いられる各種”単語”であったり、何者かの行動、有様などがあげられる。ここでは「単語」、「行動」、「有様」の3つに焦点を合わせて考えていく。

 「単語」とは日常的に用いられる”りんご”とか”食べる”といったワードのことである。”食べる”のような動詞(単語)を「行動」について考えるときにも文中で出すが、これは「単語」におけるそれとは区別される。「行動」における”食べる”のような動詞は、行動それ自体を意味し、「単語」における動詞はその行動を示す記号である。つまり、「単語」においては”食べる(日)”、”eat(英)”、”essen(独)”はそれぞれ区別されるが、「行動」ではどれも同じ”食べる”という動作を意味する。では「単語」の意味とはなにか。単語とは一般に世界の事物や有様、機能に与えられる記号(名称)である。そのため単語は様々な内容を総まとめにし、そのまとまりにつけられたラベルと言える。ならば「単語」の意味とはその単語に内在する内容のことと言えそうだ。例として単語”りんご”の意味を考えよう。”りんご”という単語は様々な内容を含んでる。例えば「英単語の”appleを日本語で言ったもの」とか「木になる赤くて甘い果実」であったり他にも「米会社appleの日本における略称」なども挙げられる。ここで”りんご”という一つの単語に3つの意味を見出したがこの内の一つ「米会社~」は他の2つと明らかに異なる。これはどういうことだろうか。つまりこういうことである。”りんご”という単語には世界に存在する植物としてのりんごをその内容に含むと同時に、会社としての内容も含んでいるのである。このように一つの単語でもその内容に対応する世界の事物は一つとは限らず、日常生活の中でもそのことは明らかであろう。同様に”食べる”という単語の意味も見てみよう。食べるとは「eatを日本語に訳したもの」や「食べ物を噛んで飲み込むこと(デジタル大辞泉)」といった内容をもつ。また付属語と呼ばれる「りんご”を”食べる」の”を”とか、「猫”が”鳴く」の”が”なども単語として扱わるが、これらの意味は何であろうか。単に「ひらがなの一つ」とか「”か”に濁点がついたもの」といった内容を含むが、これらの内容は付属語としての意味ではない。付属語としては「自立語(りんごや鳴くといった単語)の後に着くある機能を果たす語」といった内容となるだろう(ある機能は付属語により異なる)。

 次に「行動」の意味を探る。この「行動」には多くの場合その行動を示す記号(名称)が与えられ、その名称は先ほど考えた「単語」に該当する。「単語」の意味は、その名称に隠されていた内容であったが、一方で「行動」はある単語に対するその内容自体とも言えるので、「単語」と同じような考えは使えない。ところで「行動」とはそれを起こす何者かがあり、一般的に行動の意味を知りたがる者はその行動によってどんな良いことが生まれるのかとか、どんな動機があってそれを行うのかということに興味があるのである。つまり「行動」の意味とはその行動を起こす者の内に秘める目的と言えそうだ。例をあげよう。りんごを食べている人がいるとして、その人のりんごを食べるという行動にはどのような意味があるのだろうか。その行動の動機は色々考えられる。「お腹を満たす」ためであったり、腐りかけていて「捨てるのはもったいない」から食べたのかもしれない。もしかしたら何者かに食べないと殺されると脅されて、「殺されない」ために食べたのかもしれない。このように第三者として行動を眺めたときその意味は様々で、少なくとも完全な第三者が行動の真の意味を把握することはできそうもない。では行動の真の意味を知っている者は一体誰だろうか。1つ目は、その行動を起こした当の本人であろう。お腹が空いたので「空腹を満たす」ためにりんごを食べたなら、その行動の意味は「空腹を満たす」ことにあるし、脅されたなら「危険回避」という真の意味がある。2つ目は、行動を起こした本人はその行動の意味(意義)を把握していないが、その行動を指示した関係者は行動の意味を把握している場合である。指示者が「明日の食事会は黒い服で来なさい」と支持し、行動者が「黒い服で行く」という行動を起こしたとしよう。行動者はその行動の意味を把握していないが、指示者には、会場であるレストランでは黒い服を着ていくと料金が「割引になる」という立派な意味(意義)がある。とするならば行動者の「黒い服で行く」という行動の意味は指示者により与えられる。ここで注意だが、行動者が、「指示者に逆らうと具合が悪いからとりあえず支持に従っておく」という理由により「黒い服で行く」ならば意味は行動者により与えられるべきだろう。このように「行動」の意味は行動の関係者により様々な意味を持ちうる。そこで行動者を基準として、行動者、指示者がそれぞれ意味を持って行動し、指示している場合(意味が一致している必要はない)、行動者の意味を一次的意味、指示者の意味を二次的意味と呼ぶことにしよう。指示者がまた別の者から支持されて「指示という行動」を起こしている場合、三次的意味が生まれる。また、行動者が完全に意味を持たず機械的に行動を起こしている場合、一次的意味は指示者に帰属される。3つ目。以上の2つはどちらも行動の関係者が意味を把握していた。それでは関係者の誰もが意味を把握していない場合はどうなるだろうか。行動に対する第三者の状況は上の2つの場合と変わらないが、ここで問題なのは行動の関係者も意味を把握していないため、真の意味を知るすべが見当たらないということである。このような状況を「行動」とは区別し「有様」として考える。というのも行動の当事者たちも意味を把握していないならば、その行動の意味を考える手がかりは、既に起こした行動を自ら振り返り反省することで、その行動の意味を考えるほかない。この状況は第三者のそれと全く同じである。そして、その問題となる行動を起こした者がいる(いた)ような世界の「有様」を考えるという意味で、「行動」とは区別する。

 では「有様」の意味は何であろうか。先程誰一人として意味を把握していない「行動」として「有様」を導入したが、これに限らず動植物の振る舞いや世界の有様(物理法則など)といった人間の関与しない事柄や何かが存在するということ(例えばりんごがあるということ)も「有様」として考えられる。「単語」における意味は日常生活の有機的な活動や辞書と言った人為的な定義によって与えられ、「行動」の意味はその行動の関係者の意思により与えられた。「単語」も「行動」も第三者がそれらの意味を”考える”ことは自由に行えて、何らかの方法で答え合わせができた(完全な答えではなくとも大まかにこういった物と言う答えは得られた)。しかし有様の場合は第三者が自ら答えを考える必要があり、その活動に制約はない。しかし既に承知の自然法則や一般的に知られている知識体系により「合理的」であったり「それっぽい」意味を見いだせることが有る。例えば生物学における環境と生存競争、進化論という原理により鳥の羽根の色や形の意味を見いだせる。つまり、例えばジャングルの色と同化することで天敵から逃れたり、効率的に飛べるという意味を得られる。また、数学や物理学の理論によると、ある物理量の微分がゼロならば、その物理量が時間に依存しない物理量であることを意味する。しかし知識体系によって意味を見いだせる問題は全体のごく一部であろう。しかしがむしゃらに導き出した意味よりも、知識体系にのっとって見いだされた意味は有用で、人間に納得感を与え更に知識体系を発展させることもあるだろう。ただしあくまで知識体系に依存していることに注意が必要で、それっぽい意味を見いだせるからと言ってそれが真の意味とは限らない。

 最後に「有様」において人間ではない何かによって既に意味が与えられているような場合を考えてみる。それは例えば真理的な自然法則、知識体系であったり、もしくは神と呼べるような存在によって「有様」に限らずその他あらゆることの意味が人間の活動に関係なく与えられているような場合、神的存在(自然法則含め)が与えた意味こそが一次的意味であり人間の意志により与えられる意味は二次的意味ということになる。仮にこのようなことが事実だとして我々は一次的意味を知ることができるのだろうか。これは全くわからないことである。しかし人間の行う科学や哲学といった学問体系は擬似的に神的存在(学問理論)を仮定しその理解を勧めていくことにほかならないだろう。