インファーネスひみつきち

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日常の範囲における”信頼”

 ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか。

 そもそも「信じる」とは一体どのようなことなのだろうか。広辞苑によると「①まことと思う。正しいとして疑わない。②間違いないものと認め、頼りにする。信頼する。信用する。③信仰する。帰依する。」とあるが、第一にここでは「信じる」という行動を行っているものは人間であるとする。そのうえで①②③はどれも、人間にも非人間にも適応できる。そこで本稿では信じる対象を人間と非人間に分けることにする。ここで言う人間は日常生活で言うところの人間である。非人間とは電車の時刻表や各種命題、神などである。ところで人間を信じるとか神を信じるというのは、このまま素直に受け取るとなんだか変だ。というのも通常我々が誰か(人間)を信じるとき、それはその人間の発話内容や行動(きちんと仕事をこなしてくれるなど)を信じている。神に対してもただ漠然と神を信じているのではなく、神がいるということ(神の存在)を信じていたり聖典の内容を信じているのだ。つまり、ある対象を信じるというのはその対象から生み出されてくる命題(明日晴れるとか、明日までにやりますとか、私がいますなど)を信じているのである。

 このようにして考えると「信じる」という行動も「偽の可能性のある命題を真と判断すること」などと言え、更に偽の可能性から信じる度合いも見いだせる。これは我々の経験からも確かに考えられ、「電車が時刻表通りに来ると信じる」のと「遅刻魔が時間通りに来ると信じる」は明らかに信じる度合いが異なる。そしてこの2つの違いは偽の可能性の違いと言えるのだ。ところで次のような場合はどうだろう。ある予言を含んだ宗教の聖典があるとして、その予言が外れてしまったとする。この時点で信者はその宗教を信じられなくなってしまうのだろうか。実際にはそんなことはなく、むしろ宗教組織としての団結が深まるという(心理学的な作用)。これは一体どういうことだろう。前に上げた電車や遅刻魔に対する信頼は今までの経験などからの確率という合理的な判断基準から生まれた信頼であった。一方宗教の方は合理性からかけ離れた「個人の信念」からくる信頼と言えないだろうか。思えば遅刻魔についてもこのことが言える。例えば遅刻魔が非常に申し訳無さそうに「次こそは絶対遅れない!」などと言うものなら、経験的根拠がなくても「信じたく」なってしまうものだろう。

 まとめてみよう。人間が何かを信じるというのは、「信じる対象から生み出されてくる命題を信じる」ということであり、そして命題を信じるとは「偽の可能性がありながらその可能性を無視して真と判断すること」である。そして偽の可能性は信じる度合いとして現れる。更に人間には「信じたい」という信念から偽の可能性を無視して過剰に信じてしまうことがある。

 さて、以上を踏まえて人はなぜ信じるのかという問を考えていきたい。そもそも世界に確実 なことは一体どのくらいあるだろうか。いくらでも懐疑的になれるこの世界において全く何も 信じずに生きるとなるとこれは大変だ。そのため人間が日常において日常的に生活する以上この時点で無意識的に無数のものを信じている。通常このような当たり前の事象(陽はまた昇る のようなこと)は信じるとか信じないという対象からは外され、無条件で真とされ、信じると か信じないという用語が出てくるのはもっと信頼の置けない(偽である可能性を無視できな い)対象に対してである。考えるに、当たり前の事象は人間の生活に安定をもたらす。そしてこの当たり前の事象が増えるほど人間の生活は安定へと向かのうだろう。もしもこの世界のすべての事象が当たり前の事象であったら、個人の誕生から死まで、工場のレーンのような合理化された流れによって当たり前に生まれ、生を過ごし、死んでいくの ではないだろうか。この無機質で機械的な「信頼のおける世界」に魅力を見出すのは難しいが確かに安定で、面倒はない。思えばこの無機質な世界に似た世界を「信じる」と言うテーマから導ける。それは徹底的に懐疑的になり何も信じないと言う判断をすることで見出される世界である。この「信頼のおけぬ世界」も「信頼のおける世界」とはまた違った意味で人間らしくない。このような世界では何も信じられず身動きが取れなくなってしまう。このように信頼の問題における極端な事例として二つの極をなす世界が見出され、人間はこの二つの世界の間を揺らぐこととなりそこに安定を見出すのだろう。このような理由で「人間はなぜ何かを信じるのか、信じようとするのか」と言う問いに対して「世界の安定化のため」とここでは答えることにする。

 次に人間はどのようにして「信じ」と言う行動を獲得するのかについて考える。思うに信じると言う行為は次の四つを根拠に行われる。すなわち習慣(経験)、信念、推理(これは習慣からなるとも見れる)、真理的直感である。順に見ていく。習慣は時間通りに電車が来るといった経験を根拠とする。信じる度合いは命題が真である可能性だったので、習慣を根拠に持つ命題は経験的に真である可能性が高いと見れよう。この習慣の極端な例が日はまた昇るのような当たり前な事象である。次に信念は、「信じる」行為者が習慣や推理などの根拠に問わず、単にその行為者の「信じたい」という願望を根拠に持つ。友人にお金を貸す時や、学問分野における自説に対してこの信念はよく働く(働いてしまう)ことだろう。また、信念を根拠に習慣を考えることもできる。つまり「いつもうまくいっていたから今度もうまくと信じたい」といった具合に。次の、推理は、信じられる命題から論理的に新たな命題を見出すことで、信じられる命題と論理法則を根拠に新たな命題を信じるということである。推理はそもそも論理法則を信じているから成し遂げられる。このよう習慣、信念、推理は相互に関係しあっているためより深い哲学的考察が期待できるが、ここではそれを行わずに表面上三つに分けておく。最後の真理的直感だが、これはあくまで信じる行為者に固有の”感じ(純粋経験が近いか)”であり、世界一般の真理とか、世界一般に共通の習慣的知識ではない。何か宗教的、神秘的体験などによって得た直感がそれとなる。この直感においてもはやその命題は真である。たとえ科学や社会的にその命題が偽だと判断されても、形而上世界(形而上世界論参照)を根拠に命題の真を保証するのである。

 最後に本稿の本題である「ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか」という問いに取り組む。この問題のキーポイントは「信じられずにいる」ことであろう。何故信じられずにいるかはここには書ききれないほど様々だろうが、この問は極めて実用的な問なので、実用的な範囲内で考えていくことにする。つまり極度に哲学的にならず適当なところで折り合いをつける。そういう意味で「信じられずにいる」原因を次の2つに分ける。①懐疑精神、②経験や推理による不安。

 まず懐疑精神からである。これは偽の可能性があることを理由に信じずにいるのであった。しかしこれは世界の殆どあらゆることに対して適応可能であるが、それでは懐疑精神を持つものは「信頼できぬ世界」で身動きを取れずにいるのだろうか。実際にはそんなことはなく、平然と日常を送っていることだろう。懐疑精神が発揮されるのは限られた一時だけである。ならば日々平然と送っている日常の中で生きればよいし、懐疑精神による不安を気にすることはないだろう。気にしたところで懐疑精神をまのがれることのできる対象物は「真理的直感」によるものだけであり、それは望んで得られるものではないだろう。なので懐疑精神に悩む者への問の答えは「普段の通り日常を生き、ときおり現れる懐疑精神に怯えながら真理的直感を待て」となる。

 次に経験や推理による不安である。他者を信じ安定した世界を手に入れたものの、その他者の裏切りによって不安定な世界に逆戻りしてしまったり、そのような経験からまた同じことが起きたりするのではないかという推理により他者を信じられずにいる状態である。この状態の主な原因は、対象物の見誤りや過度な期待、過度な推理が挙げられると思う。見誤りは対象物との信頼度が低い状態で信じてしまったことに有り、そしてこれは自身の「信じる」という経験の乏しさから判断を見誤ったり、何かを信じたいという信念の強さから生まれたりするものと思う。更にこの誤算は世界の安定化したいという焦る思いも含まれていることだろう。過度な推理というのは期待はずれになってしまうのではないかなどという懐疑精神に近いものだろう。上で見たように「信じ」が生まれる過程は経験の積み重ね、信念、真理的直感が重要だとしたが、日常の範囲で最も威力を発揮するのは、経験の積み重ねと信念だろう。更に信念は信頼度を無視するのであった。ならば裏切りや期待はずれを回避するには経験を積み重ねるほかなく、信念という不合理であろうと信じるという有る種宗教的信仰に近い信頼が作り出す世界の安定は大きいだろうが、その信頼が壊れたときの世界の不安定化も大きい。

 まとめよう。「ある制約によって他者を信じられずにいながら、信じられる対象を望んでいる場合、いかにして「信じる」という行為を獲得できるか」という問いに対する答えは、電車が時刻通りに来ると信じるように、赤信号で車が停まると信じるように、経験を積み重ねて対象物への信頼を日常化する事により獲得方法が有力であり、どこまでも信念に任せるのはギャンブル的である。それ故経験と信念の両方を具合良く織り交ぜるべきである。このような日常の努力を行いつつ、真理的直感を待つのも良い。