インファーネスひみつきち

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科学誕生のながれ その4~神話の真偽性~

 日常において、社会に根づいたいわば当たり前の知識の真偽は問いただされることなく真とされる。神話的、宗教的世界観の根付いた社会でも同様だろう。しかしこのような「出所不明の真」の真偽を確かめたがるのが哲学の人であった。では彼らはこの神話の真偽をどのように調べるだろう。この活動は現代の科学で言うところの実験に相当する活動になるだろう。科学において理論の真偽を問う時実験を行うが、この時、大きく2つの目的の実験に分けられると思う。一つはすでに正しいことが知られている理論を、確認のため改めて実験で確かめてみる。という再確認の実験。もう一つはまだ真偽の決まっていない理論により予想される現象や物理量が、実際に起きるか、値が与えられるかということを確認するための実験。確認の実験がある。この2つの実験を神話の場合どのように行うのだろうか。またこれら2つの実験の他にも神話にはその真偽を確認するすべがあるだろうか。

 まず再確認の実験から見てみよう。これは神話の記述が実際の世界をきちんと説明しているかということを確認する作業になるだろう。例えば「その昔こういう理由で白い木の実に人の血がかかった。その身を桑という」などという神話があったとしよう。この神話は桑の実が血の色をしていることを示しており、実際に桑の実は血のような色をしている。このような手順で確認が完了する。もちろん神話の解釈の方法は一通りではなく説明も不十分となることが多いことだろう。この点も現代行われている科学とは大きく異る。

 ところで神話が社会に根づく過程で、人々の社会自体も変化することだろう。例えば神話に登場する実在する国が戦争等で滅ぼされたとしよう。時代はめぐりその国が実在したことは忘れ去られ人々がその国を知るきっかけは神話唯一となったとき、人々にとってその神話は、人々の知らない国の存在を予言することとなる。そして実際にその国の跡が発見されたとなるとこれは確認の実験と見なせるだろう。とはいえこの神話における確認の実験も、現代の科学のそれと比べたら欠陥に溢れてることは否めない。しかし仮に神話の根付いた社会でこのような確認の実験が行われ、そしてそれが成功したならばその社会の人々にとって神話は十分に真と思えてしまうだろう。

 以上は科学実験を真似た神話の科学っぽい活動と言えるだろうが、もっと根本的に神話の真偽を確かめる方法に、神との接触があるだろう。もっともこれは、「神」の真偽であって「神話」の真偽を問えるものではないかもしれない。また、神と接触したその人が神とどのようなやり取りをしたかにも大きく左右されるが、この神との接触で神話が受ける影響は大きく2つに分けられると思う。一つは神話の真性が大きく増す。これは神話の内容と神とのやり取りが合致しているときである。もう一つは神話の修正である。神とのやり取りと神話の内容が部分的に異なったりする場合はこれになる。またもう一つ考えられるのが神話の全面的修正。これは今までとは異なる神話の誕生を意味する。

 この神との接触接触者当人の経験であり社会全体にとっての神話の真偽に影響を及ぼせるとはかぎらない。これは接触者の社会的地位などに依存することだろう。また、たとえこの経験が幻覚等によるなにかの勘違いであったとしてもやはり当の本人にとっては強烈な経験としてその人の神話の真偽を決定づけることとなるだろう。真偽の信頼性については確認、再確認の実験でも同じことが言え、たとえある人物が個人的に「神話の国」を発見したとしても人々がそのことに聞く耳を持たなかったら「神話の国」はどこまでも「神話」の国である。信頼の置ける人物が「神話の国」を証言したり、多数の人物が「神話の国」の実在性を語ることで社会は神話の国を認めていく。そしてこのことは現代の科学にも通ずるところがあり、実験の最中に原因は何であれ常識を覆すような発見があったとしても再現性がなければ社会一般には認められない。

 以上に述べたような活動が実際に行われてきたかは定かではないが、科学探求ならぬ神話探求もこじつけかもしれないが確かに科学のような「科学っぽい活動」が見え隠れしている。

 次回、完全性の問題を扱う。